あか   い   かげ   あき
 赤  井  景  韶
 (1859年9月25日〜1885年7月27日)
                           
 
 
    

 上越地方を代表する急進的青年民権家。明治16(1883)年の高田事件で唯一実刑判決を受け収監し、その後脱獄、人力車夫殺害で18年7月27日死刑に処せられた。

 赤井景韶は、安政6(1859)年9月25日赤井喜兵衛・みつの長男として中頸城郡高田木築町に生まれた。幼名を乙五郎といった。赤井家は高田藩の下級士族で、禄高10石2人扶持(旧禄)であった。父喜兵衛は戊辰戦争の際古志郡栖吉村で戦死しており、その後は母に養われた。喜兵衛戦死時、景韶は10歳の少年であっ
た。

 自由民権運動に参加する以前の景韶の動向ははっきりしないが、小学校の教師として生計を建てていたようである。明治9年1月から翌10年4月まで、句読師として上馬場小学校(新井市)に在職していた。また14年4月から12月まで、授業生として新井小学校に勤務していた。教師時代の言い伝えに、「赤井は教える時、手で一字一字をゆびでさすくせがあり、その手が大きかった」という話が残っている。上馬場小学校辞職後は、西南戦争従軍した。

 景韶が自由民権運動に関わるようになったのは14年結成の頸城自由党からであると思われるが、運動の表舞台に出てくるのは15年9月に長岡で開かれた自由大懇親会からであった。この懇親会は集会・出版・言論の自由を要求し、運動の強化をめざすために開かれた集会であった。9月20日の懇親会に参加した景韶は、翌21日の幹部の会議に参加し、遊説委員の一人に選ばれた。23日に長盛座で行われた政談演説会に、景韶は「革命論(社会革命ノ欠クヘカラサルヲ論ス)」を演じた。演説草稿「時勢論」には、ロシア・イギリス・アメリカの外国勢力が皇室を脅かしている緊急時に、集会・言論・出版の自由を許可しない政府を厳しく批判していた。また、人民を中心にした政治を考えていた。

 明治16年3月20日、21名の頸城自由党員が逮捕される高田事件が発覚し
た。事件の発端は、検事補堀小太郎のスパイ長谷川三郎の密告から始まった。長谷川の密告とは、頸城自由党の政府転覆と同党による警察・裁判所の焼き討ち計画であった。赤井は、20日自宅で逮捕され、井上・風間と共に高等法院に移された。高等法院で検察官は、赤井の「諸省ノ卿以上ヲ斬殺セント」とする自供と「天誅党主意書」を証拠として採用し、内乱陰謀予備罪を要求した。裁判官玉乃世履は、検察官の主張を取り入れ、内乱陰謀予備罪で重禁獄九年の判決を下した。急進化しつつあった頸城自由党青年民権家が官憲に狙われ、その標的になったのが赤井であった。

 石川島監獄に収監された赤井は、同室の石川県士族松田克之と脱獄の計画をなし、17年3月26日脱獄を決行した。逃走の途中で人力車夫を殺害した赤井は、松田逮捕後も厳重な捜査網をくぐり抜け、山梨県南都留郡宝村広教寺の僧侶になり済ました。しかし甲府警察署の捜査の手がのび、赤井は静岡に逃走した。静岡では自由党員鈴木音高や清水綱義に匿ってもらったが、静岡警察本署の捜索が進んだ。浜松に逃げようとした9月10日、赤井は大井川の橋上で捕縛された。

 18年6月死刑の宣告を受け、7月27日市ヶ谷監獄署内で絞首刑になった。辞世の句は、次のようなものであった。

  青葉にて散るともよしや楓葉の
        あかき心は知る人ぞ知る

 実弟新村金十郎に対して贈った血書の辞世の句は、次のようなものであった。

  さてもさて浮世の中を秋の空
        なき友数に入るそうれしき

 小島周治と新村が赤井の遺骸を引き取り、谷中天王寺の墓地に葬った。赤井の戒名は、「青雲軒景韶有道日皎居士」であった。

 *主要参考文献 永木千代治『新潟県政党史』、『新井市史』下巻、江村栄一
  『自由民権革命の研究』

   

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