碑 名 | 碑 写 真 | 所 在 地 | 碑 文 |
赤井景韶墓・碑 | ![]() |
東京都谷中墓地 | (墓正面) 赤井景韶君墓 (碑正面) 赤井景韶之碑 元田肇先生題字 赤井景韶越後高田人性精悍気如虹年少為自由党員奔走国事屡反抗政府之威圧明治十六年与同志相謀起天誅党欲斃廟堂之士事露下獄政府開高等法院于東京糺弾其罪処禁獄九年所謂高田事件是也君囚在石川島与同檻松田克之倶破獄遁留甲斐宝里大幡半年探査日厳□潜行至駿河終執大井橋上十八年死于東京市谷刑場時年二十八蓋因脱獄之際殺輓夫也嗚呼 可惜哉銘曰 憤慨憂国 事与志達 貞石一□ 江山長非 昭和八年癸酉春日 河野広躰撰併書 黄泉 (碑裏面) 昭和九年三月建之 景韶 大丈者か故ニ路詠の底久方の神より外に志る人もなし 発起者 井上敬次郎 加藤平四郎 鈴木義隆 伊藤仁太郎 宮地茂秋 河野広躰 |
竹田鵜飼君碑 | ![]() |
両津市原黒 | (正面) 竹田鵜飼君碑 君名郁、字は子文といい、郁次郎と称し、竹田と号す。本姓は羽生氏出でて鵜飼氏を続く。真野村竹田の人な り。考、諱は済、通称は甚左衛門、俳号を谷守という。竹田の里正たり。妣は吉田氏、君は其第三子なり。安政二年七月二十一日生れ、幼より家学を受け、長く、溟北圓山先生に師事す。明治九年官立新潟師範学校を卒業し、選ばれて東京府の教育に従事す。既にして時勢の変遷を視て深く之を憂え、教職を辞して同志を糾合し、国会開設之議を建て、十三年太政官に上書すること数回、皆納れられず。是に於て、河野広中、杉田定一等と自由民権之説を唱道し、以て与論を喚起す。十八年県会議員に承り、地方自治を謀り頗る心力を尽す。両津河原田之県道を開鑿す。本州之県道を有すること此より始まる。二十三年国会開設に当り選ばれて、衆議院議員と為り、二十五年に再選す。君夙に経綸之志を抱き、特に内治外交に確たる政見を有す。即ち、宗教之改革、兵役税之新設を以て先務と為す。又、条約改正を以て一日も緩にすべからずとし、綾井武夫、前田案山子等と謀り、雑誌回天を刊行す。其意は国権を伸張し国威を顕揚するに在り。議論剴切にして懇到、聞く者歎服せざる莫し。又力を本州海底電線之布設に尽し、以て通信之便を図る。晩年感ずる所有り、超然退居し、書を読み詩を誦し、意を有識故実之学に精め、奇書珍本を蒐めて、本州史籍に於て捜し羅め遣す無し。蔵書一万三千巻、地方文運を資益すること少なからず。君資性剛直、人に接して城府を設け ず、国事を談論して言語爽快、憂憤之気を眉宇に見る。事に当って果敢、熱心に努力し、達して後已む。君父母に孝に、兄弟に友に、師道を尊び、友誼に篤し明治三十四年九月二十七日病みて新潟病院に没す。享年四十七。帰りて原黒村に先塋之次に葬る。君青木氏と配し、嗣子重雄祀を承く。頃者故旧相謀り碑を建て、其事項を伝えんと余に文を請う。夫本州は新潟を距る遠からず、東に北海、樺太を引き、西に浦塩斯徳を控え、当に日本海之要枢にして天下之大勢に関係を有すること明らかなり。此れ君が海底電線を布設し航路の拡開を謀る所以ならんか。余、君と相会する毎に談之に及ぶや、未だ嘗て其先見の懐に低掌せざるなし。乃ち敢て辞せず、聊か其梗概を掲げ、以て後世に昭示す。 昭和五年 農林大臣従三位勲二等 山本悌二郎 題額並撰文 広橋足穂書 |
加藤貞盟碑 | ![]() |
上越市 金谷山 |
(正面) 加藤貞盟君碑銘 正三位勲三等男爵末松謙澄篆額 君名貞盟加藤氏世家于越後中頸城郡樋場村為邑名族父名貞寧宮崎芳春之第三子也入螟於加藤氏為高田藩大肝煎職友令名一郷恍服君其次子也為人外温而内剛有大略幼好学受句読於服部某既長幹父蠱及父歿君承後先是樋場今池両村争界連年不決将仰公裁君聞之曰吾雖年少既継先人之職不可令我郷有此薄俗之事乃召魁首旨諭之且自執竿画其境界処理公正両村心服不敢復争元治元年幕府有征長之師藩主課役於封内至樋場村君論其賦役不平且謂師名不正不肯奉命因獲罪禁錮明治元年見釈尋為地券肝煎職又任柏崎県地券課出仕転新潟県計算出納掛以直言忤官長辞去七年見推為副大区長衆皆属望当時設楽校修道路改造橋梁堤防諸工設雑然並作君率先投資躬当其衝規尽莫不立弁闔村依頼十年有西南之役君請募一郷壮丁緩急従事無幾乱平十二年見選為県会議員当是時天下設民選議院論起君賛同勧誘同志得数十万人十四年板垣退助等創自由党所謂中央自由党是也君首応之創頸城自由党与鈴木昌司等為其主幹与中央自由党通声息北越之地従風而靡十六年下獄以国事犯見疑也頃之見釈帰二十年四方志士大集東京痛論秕政将欲有所為政府発保安条例逐志士余与君同在逐中倶至横浜往来計画率無虚日二十三年九月三十日病没于横浜享年四十九葬于東京谷中塋域始配服部氏先歿継配笠松氏亦歿後配倉石氏有男女五人長貞鉄承後貞国女適森本義質余夭大嗚呼君為一郷豪族而倹勤持其身事苟益世利民不敢顧惜身命貲財東奔西馳不遑寧処惜哉天不仮以年空齎恨於九泉今茲郷党相謀徴余文建碑于高田金谷山以伝君於不朽余与君交非一日義固不可辞及銘之 困厄不辞 鞠躬以謀 事雖不遂 志亦小酬 胸次卓落 誰其為儔 貞a有勒 乃千斯秋 明治三十二年六月 従四位勲三等 星 亨@ 正五位 石阪昌孝書 真野叱石鐫 |
桑原重正碑 | ![]() |
中魚沼郡 秋成村 |
(正面) 桑原重正翁之碑 (裏面) 翁は幕末の安政四年(一八五七年)七月二十六日、秋成本村の雑貨商大阪屋の当主桑原徳十郎の長男として生まれ、幼名を重太郎と称し、資性明敏まさに不世出の天才の名に値し、幼なくして神童の名を高からしめました。中津河畔の松下村塾と謳われた中深見龍源寺境内の赤山塾における少年期の蛍雪不撓の研学は翁の知性の開発と人格形成を不動なものにしました。長じて政界に身を投じ、県政界と中央政界を舞台とする輝かしい活躍は、まさに日本の政治史を飾るに十分なものでした。後年感ずるところあって中央政界を退き、明治大正昭和の三代にわたる約四十有余年、理想的自治村政の育成に尽力され、昭和五年三月三十一日現職のまヽ永眠されたのであります。 村中在任中の輝かしい業績の最たるものは「子孫の大計を図るべし、」との治村の基本方針に則り、植林を奨励し、村民一丸となってこれを推進したことであります。今回国営事業の一環として、津南高原に大規模年金保養基地が誘致され、それを機に、この宝の美林は国に売却することになりました。当部落にかヽる膨大な基本財産を形成するに至りましたことは、ひとえに翁の子孫の繁栄を願った先見の明と、計り知れぬ遺徳の然らしむるところであります。ここに在りし日の翁の偉大なる人と為りを偲び、その不朽の高恩に報いるため、顕彰碑を建立するゆえんであります。 昭和五十二年八月 秋成部落民一同 撰文 石田 穣 揮毫 高橋正平 |
桜井長右左碑 | ![]() |
北蒲原郡 広神村 一日市 |
(正面) 桜井君之碑 君姓桜井、諱某、通称長右衛門、後改長左右。生天保十二年三月二十日、卒明治十九年十月三十日、考諱寛治、妣広田氏。室井口氏、生一男一女。男鉄三、継家。抑君之先桜井長左為会津横田城主山内氏臣。後来於越後国魚沼郡池平邨、為里正。君之祖父近之助、君之父、及君、皆為里正。池平邨屡換管轄。然里正常出乎桜井氏。蓋以桜井氏世世有其人也。君温厚而有智、緻密而有断。頗称其職賢称嘖嘖、曽有独礼及穿袴之栄。維新之初柏崎県庁命地券之事。無幾新潟県庁任戸長。又遷区長。県会之初郷人推君充議員。後除十二邨戸長会。郷隣有争者君居其間解糾紛。会有訴訟官或使君調和之。君非緻密善断、則曷如此哉。小出島之南三里而有鉱泉、曰大湯曰栃尾俣。浴客以千数。而道甚険、人甚苦。君謀諸邨曰、鉱泉之道無修繕之責。沿道有力能修、以使行人便焉、豈不善哉。命曰高挙也、当従君以尽力。此時穀価不廉、故未起工、而君溘焉。諸邨@迄今惜之。今茲辛卯七月、郷人醵金以勒君之実行於貞琅。余游歴在長岡郷人介入沢氏嘱碑文於余。余感其成人之美、応需銘曰 祖徳宏遠 貽謀有基 @然君子 推誠随時 管轄屡換 職務不移 雖早就木 功成名垂 郷人重義 建斯豐碑 紀元二千五百五十一年七月 筑後国 佐田白茅撰并書 藤井日孝鐫字 (裏面) 憐れとも思はば誘へ夜半の風 彼の岸に見る人ぞ恋しき 咲初めて人の眺望もあきなんに なぞ夜嵐に散るぞうらめし |
島田 茂碑 | ![]() |
中魚沼郡 宮之原村 上郷中学校 |
(正面) 頌徳 定一敬書 島田翁碑 衆議院議員関矢儀八郎選 我邦立憲政体之創設雖固出於明治天皇聖慮草莽志士首唱之功亦与有力焉而挙本県志士則翁実其一人矣翁姓島田名茂中魚沼郡上郷村字宮野原人家世里正以天保癸己歳生成童入長谷慎斉之門修漢学又従服部数軒学医術嘉永甲寅歳負笈遊于京師就松浦畑赤松山田諸先輩問業傍質西洋事情大有所得後遊于江戸客于伊藤鳳山家安政五年襲里正職慶応二年郡起運上役銀之談也翁為百九十余村総代控于幕府時属幕末政綱弛廃不得直而帰明治十二年挙県会議員為議長為常置委員賛県政進民利者為不尠焉十三年代表県民千二百五十二人建白国会開設于当路十四年組織越佐共致会以輔県治十五年起北辰自由党鼓吹自由民権説以致力于立憲政体創設余也肩随翁及鈴木山際松村諸先輩者多年翁長身有威音吐如鐘言論風発率常屈座人命茲庚申郡人追慕翁功徳立碑謀不朽属文于余執筆冥想翁之音容宛然在眼今也政党内閣樹立翁等之望殆達而翁則不及覯追懐当年不堪今昔之感也 大正九年七月 鏡古山人建書 (裏面) (特志者賛助員氏名省略) |
鈴木昌司頌徳碑 | ![]() |
中頸城郡 代石村 |
(正面) 従位五位鈴木君碑 従三位勲一等床次竹二郎題額 君諱昌司幼名保逸郎号竹外鈴木氏新潟県頸城郡代石村人家世為里正君幼聡敏及長襲識有声誉明治八年唱自由民権説周遊諸集十二年府県会制始行君選為県会議員遂陞為議長居恒慨我国勢之末振民権之末伸与同志相謀創立頸城自由党時十四年也末幾党勢大振声威動帝都君名亦籍於海内矣十六年春頸城自由党疑獄起君以党主繋獄数月訊鞫無実竟釈而執志弥堅二十年六月外務大臣井上馨将行其改正条約中有以外人為法官一項君等以為此傷国権辱国威尤甚者矣非阻遏之則国家之禍将不可測痛論其非伝檄海内都鄙憂国之士奮起応之物情恟同十二月政府遽布保案条例遂志士五百七十余人於帝都三里外君亦其中而潜居横浜更有所画策井上氏改正条約之不行者君等熟誠尽瘁之力居多焉二十二年紀元節挙憲法発布式子宮中召各府県会議長列其席君亦与焉喜而賦詩曰去年三里遂城外咫尺今朝謁至尊祝砲声々雲漸散芙蓉如玉出天門先是馨辞職大隈重信代之重信急於立功将断行其改正条約案以外人為法官者如故由是世論復大沸騰君等排撃最劇重信為来来島恒傷遂罷職条約改正案亦卒不行実為是際十月事二十三年始開設帝国議会君選為衆議院議員二十五年十二月与同志数人推立憲自由党提出其条約改正上奏案於議会終為所納焉於此政府与欧米諸国締対等条約而君等之志始遂矣君家素豪富殆蕩尽国事而不顧也二十八年四月三十日病没歿於東京僑居距生天保十二年九月十八日享年五十五娶丸沢氏生三男義隆曰義雨曰香二義隆亦衆議院議員昭和三年今上天皇挙即位礼贈十五位近者郷人及義故相謀将樹碑以不朽事項寄状請文余夙与君同志共事詛不可辞乃叙其概要係以銘曰 尽瘁国事 終始一轍 身在江湖 志恋醜闕 比越之州 独推人傑 家産雖損 英名弗滅 昭和六年九月上瀚 正五位加藤平四郎撰 河野広體書 小林郡鳳刻 (裏面) (地方発起人・東京発起人・賛助員氏名省略) 昭和七年七月五日除幕 |
関矢儀八郎碑 | ![]() |
柏崎市 大久保 西光寺 |
(正面) 関矢君之碑 農林大臣従三位勲三等山本悌二郎篆額 関矢君儀八郎国士也以安政五年十月生於越後刈羽郡剣野村家世為里正父福右衛門母小林氏君幼跌蕩而学受句読於原修斎明治四年入柏崎県学問業於剛斎青柳先生及先生開菁莪学舎為其塾頭当時自由民権之論興君亦慨然立経国済民之志与郷先輩松村文次郎等加盟自由党奔走有所企画十五年起上條義塾以務育英十九年為曹洞宗学林及北越学館教師従是占居新潟傍操觚東北日報首唱裏日本之大計在対岸露領通商和者不尠二十二年挙県会議員重選数次在任十四年県政多所@厘正二十四年創設自由新報三十五年始挙衆議院議員逮大正六年前後三当選主論議露領経営自君入自由党四十余年政界幾変遷不以隆替渝其節士林称之君之従事露領経営始于明治二十三年率同志視察浦港一帯此歳帝国議会創開君乃請願新潟浦港間定期航海爾後内重請願外屡航露領促進通商殆不寧処二十六年得航路開通二十七年躬著乎沿海州漁業従是往来三十年不曽休当時志於斯業者接踵起而君志則在国利公益故計図不挟私心披瀝其経験以啓佑後進於薩哈連於諫薩加当業者皆能整歩調而進其規模遂年発張@日露役熄重修国交特設漁業協約以制定両国利権焉抑帝国獲得此利権而漁猟者始得安就業者君多年尽力於嚮導与統制以築基礎之労苦多云四十一年与全国同業者謀組織露領水産組合推為評議員兼新潟支部長左職十三年常以長老被遇内外事務無木参画令也斯業之殷@為天下所額瞻望君之於斯業其功績可謂偉矣君号剣山人嗜酒能詩書当其引@澆磊@放@揮毫以遺風懐而数奇因頓以終身其獲疾亦因往来荒北屡@沍寒悲哉至大正十三年両脚痿不能起以十一月二十二日没年六十七君之没也組合新潟支部主唱同本部及各支部賛之欲建碑先@傍以不朽其事跡@余記其梗蓋以余於君有師友之誼也銘曰 @弛其材 疵瑕不匿 議院道論 何顧通寒 絶海規利 忘懐喪得 憂世憫俗 坎軻没歯 放酒@行 不失国士 私擬其人 馬周之似 昭和三年歳次戊辰一月 田代亮人謹撰 飯塚彦次郎敬書 小林群鳳刻 |
高田事件碑 | ![]() |
上越市 金谷山 |
(正面) 明治十六年 国事犯高田事件記念碑 良平書 (裏面) 連 鈴木昌司 八木原繁祉 山際七司 加藤貞盟 加藤勝弥 森山信一 坐 江村正英 堀川信一郎 笠松立太 今村致和 小林福宗 小島周治 者 樋口亨太 横山 環 赤井景韶 古河隆爾 鈴木貞司 土肥善四郎 氏 岡崎直中 井上平三郎 五十嵐正綱 本山信次 宮沢喜文治 清野迂策 名 風間安太郎 岡村寛平 鈴木昌平 上野佐源次 高島竦健 上田良平 昭和十二年十月 生存者 上田良平 建 高島竦健 賛助員 |
坪井子敬 (良平)碑 |
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新潟市 白山公園 |
(正面) 坪井子敬碑 従六位南摩綱紀撰 坪井子敬越後新潟人客死于羽前鶴岡年四十七友人故旧悲之胥謀建碑于其先宝之阡招魂祭之徴余文君諱忠成子敬其字号竹坡坪井氏父良伯業医母青木氏君不屑継箕裘請負笈于江戸父不聴使学医于長岡佐藤寛斉而君専力漢学@ (い)唔達暁寛斉諭止之君陽従陰違益勉焉方是時尊皇攘夷之説紛起天下騒然武田耕雲斉率激徒依筑波山君欲往従之至高@聞其敗復学長岡数年帰家佐父業居一年時勢大変君謂非碌雌伏之秋遂至江戸時大将軍朝京師侯伯皆就国府下蕭条乱兆巳見君乃払袂帰郷既而戊辰之乱果作事平楠本氏為新潟県令君陳済時策五条就中建学校布教化為急県令可之設学校於庁傍挙君為助教後転庶務課尋辞職創新聞社諷規官吏豪奢奮起人民卑屈又憂女子無常職流為遊娼淫娃以乱風俗請起女工場県令嘉納焉既而君歴判事補司法属大審院書記任判事叙従七位尋為監苜判事廿四年六月五日病没銘曰 平反公正 獄無枉冤 陰徳陽報 於君何慳 深刻貞石 問之蒼天 大空菴主書 明治廿八年十月建 井亀泉刻 (裏面) 子敬故旧謀建碑有故不果親戚更謀建碑成故旧宿志併祀其霊 大正十一年七月 親戚 坪井ヨツ 壺井文三郎 杉山ヤス 北村シホ 北村キイ 清水中四郎 |
西潟為蔵翁之碑 | ![]() |
南蒲原郡 福岡新田 |
(正面) 顕彰 西潟為蔵翁之碑 越山田中角栄謹書 印 (裏面) 西潟為蔵翁は弘化二年祖伝右衛門八代の長男として福岡新田に生れ幼にして目黒市左衛門山上券之助両先生に学び二十才にして京坂山陽南海北陸の地を巡視し明治元年高島村二十一ヶ村の百姓総代に公選され戊辰役後は鹿峠組の代表となり太政官会計局新発田詰となりその才幹俊敏を認められて藩主より賞金を賜わる憂国利民の熱情篤く身命何にかあらん財産吝むに足らずの信念に徹し明治二十二年大浦高島村長に選ばれ県会議員に当選すること五回出では自由民権の炬火の下国会の開設を天下の志士と共に共鳴?起し東奔西走自由党の結成に肝胆を砕き明治二十三年国会開設されるや直ちに選ばれて衆議院議員に当選されること二回力を国政に致して其の身を不顧特に三條叶津線の開鑿完成には私財を投じ郷土の開発に畢生の努力を尽し尚北越鉄道越後鉄道大河津分水事業等に貢献され更らには教育の振興に深く意を用い新潟高等学校新潟盲唖学校の創設に務め慈愛の誠を尽し新潟日報社の前身新潟毎日新聞の社長兼専務理事として時代の新潮に桿し新潟県治水会の名誉会員に推され治山治水に経倫をいたし入りては国民道徳の高陽は信仰謝恩に在りとし人倫を説きて不倦此の間板垣退助伊藤博文等と国政を論じ天下の安寧に寄与された事は世人の深かく敬仰するところ翁逝きて四十余年本年恰も明治百年の記念すべき年に当り有志相謀り縁りの地に顕彰の碑を建て遺徳を永く偲ばんとするものなり 昭和四十三年十一月 西潟為蔵翁顕彰碑建設委員代表 下田村 土田嘉久雄書 |
広川学士之碑 | ![]() |
越路町枡形城跡 | (正面) 広川学士之碑 従二位位勲一等子爵野村靖篆額 広川幸四郎誌 広川広四郎ハ元治元年九月十三日ヲ以テ飯塚村ニ生ル明治二十二年七月工学大学ヲ卒業シテ工学士ノ称号ヲ得尋テ鉄道事業ヲ研究セントシ大学院ニ入リテ其業ヲ終フ九州鉄道会社技師東京市水道技師等ニ聘セラレ又逓信技師兼逓信省鉄道技師ニ任シ正七位ニ叙セラル其間鉄道事業調査若クハ監査ニ因リ@蹟殆ド海内ニ遍シ人其勉励ニシテ且庸直節倹ナルヲ称ス明治二十九年十月二十三日病テ東京ニ没ス是ヨリ先鉄道事業視察ノ為メ欧米行ヲ命セラル益シ主トシテ東京市街高架鉄道及中央停車場設計調査ニ係レリ未ダ発スルニ及バスシテ忍@長逝セリ享年僅ニ三十三遺骨ヲ飯塚村明鏡寺ノ墓地ニ葬ル親戚故友相謀リ翌年此碑ヲ建ツト云 中静義達書 |
松村翁之碑 | ![]() |
柏崎市大久保 西光寺 |
(正面) 松村翁之碑 貴族院議員従四位勲三等 杉田定一翁篆額 (裏面) 翁姓松村名文次郎号無雅刈羽郡柏崎人家世郷士少従原修斎先生学明治十二年県会始開設選為議員為議長為常置委員其間実十有二歳公論@議賛県治進民利者為不鮮焉十三年全国志士要求国会開設干政府也翁与鈴木昌司山際七司等往会焉十五年春糾合刈羽同志以応板垣氏所率自由党爾来論自由説民権者有年二十三年国会之始開也選為衆議院議員二十五年重選以迄二十六年十二月議会解散自是不復起其意蓋在為後進啓途也翁性謹厳廉直悪贈遺請托如@@汚面以故在公職者十有六年之久未曾受物議翁壮英気英気至老圭角漸磨然有小称意直言不憚故交通不甚広翁初承家家道巳不隆家累又多而損背党不尠勤倹率身清貧終世晩年移居東京以大正二年九月二十三日没享年七十有五男利男久游米国亦有材幹銘曰 米山 峩々 鵜水G々 篤生此翁 気峭行直 志存利民 終身不惑 邦家選良 一郷衿式 元衆議院議員 関矢儀八郎 謹撰 勲 三 等 丸田嵯峨一郎 書 (田辺兵蔵 刻) |
山際七司先生頌徳碑 | ![]() |
新潟市黒埼町 木場万行寺 |
(正面) 自由民権之先覚 山際七司先生頌徳碑 衆議院議長大野伴睦書 (裏面) 先生略伝 先生は皇紀二千五百九年嘉永二年一月一日木場村庄屋山際郡司妻かほるの第一子として誕生せらる 幼にして穎悟資性豪放細節に拘泥せず夙に自由民権を唱へ雄弁四座を圧するの慨あり 明治十四年板垣退助等と自由党を創設し立憲政治の確立に尽瘁明治十二年府県制発布と共に県会議員として県政の枢機に参画し明治二十三年国会開設せらるゝや第一回衆議院議員に当選せられしも翌二十四年六月九日東京に逝去せらる 先生四十三ヶ年の生涯は長からざるも私財を抛ち心身を労して民衆の啓蒙政治の暢達 自由の擁護 社会の福祉の増進に捧げらる 特に大河津分水の事業は先考の遺志を継承して長子敬雄に伝へ本郡が県下随一の沃土となりしは先生父子三代に亘る功績と言ふべし茲に有志相図り遺徳を頌ふ 昭和二十八年四月九日 撰文 山際七司先生顕彰会 熊谷 静謹書 (下段)(山際七司先生顕彰会人名・特別寄付芳名省略) |