1989年
地方名望家たちの反自由民権論(本間恂一、『自由民権』4町田市立自由民権資料館紀要)
 私は昭和六十三年に「明訓学校覚書―反民権教育結社の盛衰―」という拙文を発表した。明訓学校運営の中心人物は関矢孫左衛門という、幕末から大正中期まで活躍した地方名望家であった。関矢は旧糸魚川藩領並柳村の庄屋で並柳組の割元を努め、努め、幕末・維新期には草莽層が組織した勤皇の居之隊に加入し、その後戸長・大区長・第六十九国立銀行頭取・北魚沼郡長を歴任して、明治二十二年北越殖民社社長となり北海道に定住した。その間、魚沼改進党設立に参加、さらに明治二十三年衆議院議員を努めている。
 関矢は自由民権運動に理解を示し、改進党の設立に参加してはいるが、本質的には勤皇の志篤く、我国伝統の国体の尊厳性を順守する立場をとるとともに、地域振興至上主義に徹した。換言すれば、関矢は自由や民権の思想には地域振興に実利があると認めたときにのみ、共鳴したのであった。彼が自由民権の中に、地域振興を阻害する要素があると認めた時には、敞履の如くそれを捨てるのである。関矢ばかりではなく、県内の民権家の多くは同じような軌跡を描く人生を送っている。
 彼らが最も拒絶したのは、地域振興に根ざさない、または生産活動に拠点を置かない自由民権論であった。建前としての自由民権が、地域振興や地方自治の推進に寄与できたのか。自由民権論が幕末から実社会の濁流にまみれながら苦闘してきた地方名望家に有効な回答を与えられなかったのではないか。彼らが最も軽蔑したのは生産点に根拠を持たない自由民権論であり、これを青臭い書生論として排除していたのである。この観点に立てば、自由民権論を排撃する地方名望家の反自由民権論を再吟味してみる必要がある。



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