1997年
佐渡民権の新史料と「裏日本」論(横山真一、『自由民権』11町田市立自由民権資料館紀要)
 一九九七年六月二八日・二九日の二日間にわたって新潟県維新期研究会が、佐渡で開かれました。研究会の史料調査の過程で、佐渡高校同窓会所蔵「船崎文庫」に相川町の民権家丸山重五郎(南畝)の史料があることがわかりました。今回発掘された史料は、以下の通りです。
 @「緑天窓日記」第一編〜第六編(明治一三年五月二三日〜一二月三一日)
 A「緑天窓日記」第二(明治一四年一月四日〜七月一二日)
 B「梓况雑報」
  ○明治一三年六月二三日付萩野由之宛丸岡成徳書翰(相川新聞社創否之意見)
  ○「新潟新聞」明治一三年六月一五日・六月二〇日・七月一〇日記事抜粋
  ○自習精舎来学生姓名録(明治一三年七月一日開塾)
  ○明治一三年八月相川聯合会議事一班
  ○明治一三年一〇月佐渡親睦会規約
 C「折柴校組内町村聯合会議事撮要」
 これまで佐渡の民権運動については、「国会開設哀願書」を提出した相川町を中心としたグループと山際七司の国会開設懇望協議会に加盟していた加茂郡のグループがあることが指摘されてきました。今回の新史料発見は、この中で相川グループの中心メンバーであった丸岡重五郎の一次史料が出たというところに大きな意義があると思います。今後史料の詳細な解読で佐渡の民権運動全体の再構築が行われると思いますが、筆者の私見で重要と思われる点を列挙すれば以下の通りになります。
 @まず相川グループの国会開設請願に向けた動きが、丸岡の「緑天窓日記」で詳細に知ること  ができます。特に日記には人の出入りが細かく記されており、どのような人たちが佐渡の民  権運動に関わっていたのかわかります。
 A相川グループの国会請願運動は明治一三年一〇月二八日の三郡親睦会でそのピークに達しま  すが、この時に決定された「佐渡親睦会規約」が新たに発見されました。
 B丸岡重五郎は折柴校の校長に就任していたのですが、「緑天窓日記」や「折柴校組内町村聯  合会議事撮要」から民権運動と教育の関係を知ることができます。民権運動と教育について  は、全国的にも研究の蓄積があり、県内でまとまった研究がありますが、その実態について  はまだまだ研究の余地を残しています。今回の新史料発見が、この点を埋めてくれればと思  います。
 さて、昨年相次いで「裏日本」に関する研究が発表されました。一つは古厩忠夫『裏日本』(岩波新書)で、もう一つは阿部恒久『「裏日本」はいかにつくられたか』(日本経済評論社)です。両書とも直接民権運動を視野に入れたものではありませんが、新潟を含めた北陸や山陰が近代に入りどのような変遷を経て現在に至ったのか知ることは民権研究をする上でも大きなプラスになるものと思われます。「裏日本」論を民権研究に引き寄せて考えても、河西英通氏が昨年一二月一四日の新潟県維新期研究会で「裏日本」意識の萌芽はいつかという指摘は興味深い問題です。なぜなら阿部氏は「裏日本」の形成を一八九〇年代としており、そうであるなら「裏日本」意識の萌芽と民権運動の高揚が重なってくるからです。また大阪事件に多くの富山県関係者が参加しますが(新潟からも山際七司が関係する)、北陸の地域性と大阪事件は関係するのか興味の尽きない問題です。民権家の地域観が、どのようなものであったのか。またその地域観と国家観がどのように関連し、国民国家に繋がっていくのか。今後の民権研究を考えて行く上で、両氏の提起は重要な問題を含んでいると思います。



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