にし  まき  さく   や
 西  巻  開  耶
(1866年2月8日〜1908年12月31日)
                           
 
 
    

 男女同権・女子教育・女性の経済的自立を、一貫して追い求めた女性民権家。明治15(1882)年の政談演説会の祝辞がもとで、集会条例違犯となり、我が国初の女性政治犯1号となった。

 西巻開耶は、慶応2(1866)年2月8日西巻喜仙治の5女として刈羽郡田尻村平井に生まれた。幼名はクワイと言い、開耶に正式に改名したのは明治21(1888)年23歳の時であった。13歳の時に東京で漢学と英学を学んだといわれ、14年には、柏崎尋常高等小学校に教員として勤めていた。

 開耶が最初に自由民権運動に関わったのは柏崎尋常高等小学校時代で、14年9月高知の民権家馬場辰猪・佐伯剛平が県内を遊説をした時に、演説を行ったのを最初とする。この時県内外の民権家が顔を揃えた柏崎町西福寺の演説会場で、開耶は「男女同権論を演し女子教育の必要性を痛論」した。開耶の演説を聴いた馬場は、開耶に賛成する演説を行ったと言われている。翌10月31日には、開耶は「与横沢重顕書」と題する文を『頴才新誌』第234号に投稿した。この中で開耶は、集会条例の規制を受けつつ懇親会で男女同権を述べれば、男女不同権の立場から批判を受け、賛成する者がいないと嘆いていた。孤立した開耶の状況を窺い知ることができる。11月、長倉純一郎(宮崎県)と片桐道宇(村松町)が中心になって青年自由党が結成されるが、開耶はこれに入党したようである(小松邦治郎所蔵『青年自由党新誌』第1号所載の党員名簿の末尾に、墨書で開耶の名前が記されてい
る)。15年6月18日柏崎町光円寺の官民懇親会で祝辞を述べた開耶は、11月3日西福寺の演説会で祝文を朗読した。この演説会は、「朝野新聞」の高橋基一が遊説して設定されたものであった。臨場した警部補は、教員でありながら政談演説会に出席した廉で開耶を拘引した。柏崎治安裁判所で出された判決は集会条例第14条と14年72号布告違犯で、未成年で1等減じられたものの罰金1円50銭であった。

 事件後、開耶は上京した。横浜のキリスト教系神学校に通ったとか、アメリカに渡ったとか言われているがはっきりしたことはわからない。確かなことは19年前後に北畠道龍の法話を聴き弟子入りしたことである。北畠は和歌山の寺の出身で、幕末の十津川の乱・第2次長州征伐、和歌山藩の藩政改革、陸奥事件、本願寺の改革など、さまざまな政争や事件に関係する人物である。その思想は、田中和徳氏によれば「勤王主義の佐幕派であり、宗教を通して総合的な政策提言をしていた急進的な改革論者であった」と言われている。開耶と出会う前の道龍は欧州・インドを視察し、「仏教改革論」を唱えて北畠大学を建設しようと構想していた。この北畠に、21歳の若き開耶が共鳴することになる。開耶は女性の地位向上を民権期から考えており、これを実現するために教育が不可欠であると認識していた。この開耶の考えに、道龍の女性解放論=精神的独立のための宗教と女性の社会進出が結びつくことになる。具体的には、北畠大学建設のために開耶と道龍は石巻・仙台・福島・函館で婦人会=ノンネン会設立運動を展開していくことになる。一時急速な勢いで婦人会の活動が行われたが、北畠の人気凋落・僧侶の反対・財政を担当した者の裏切りにより、北畠大学の建設は挫折した。この頃の開耶は、「自分自ら一人前の生活は充分に出来るよふ各自に職業を持たねばならぬと論じ」、経済的独立を強く訴えるまでになっていた。

 30年1月15日、開耶は北畠家に入籍した。既に前年の3月に道龍との間に最初の子供をもうけており、以後3人の子供を育てることになる。この時開耶32
歳、道龍は78歳であった。大阪での結婚生活は、経済的にきびしいものがあったようである。その中でも開耶は、自分の子供に「かまどにふいごで吹いている時も家事をしている時も英語で話しかけ」、「これからの時代は必ず英語が必要にな
る」と口癖のように語っていたという。40年10月15日、道龍は88歳で亡くなり、後を追うように開耶も翌41年12月31日の大晦日に亡くなった。享年43歳であった。

 *主要参考文献 三宮 勉「明治開花期自由民権勃興の花と咲いた西巻開耶」
  (『柏崎・刈羽』第10号)、田中和徳「女性解放に尽くした西巻開耶の足
  どり」(『柏崎刈羽』第26号)


   

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