1 長岡の自由民権運動
明治10年代前半、全国的に自由民権運動が高揚する中で、新潟県の民権運動も県内各地で活発になった。自由民権運動は直接には政府に国会の開設を要求した政治運動であったが、運動の基本的な理念は民衆の権利と自由を獲得することに主眼が置かれていた。明治国家が形成される前のことであり、民衆は政治参加を強く望んだ。なかには少数ながら女性や少年も民権運動に参加することになった。
新潟県の自由民権運動は、明治13(1880)年山際七司が中心になった「国会開設懇望協議会」からスタートした。この年、二度にわたる国会開設請願が元老院に行われた。翌14年には全県的な民権結社をめざした「越佐共治会」が結成され、8月には高知の民権家馬場辰猪、10月には板垣退助が県内各地を遊説し、いやがおうにも運動が高揚することになる。板垣遊説中の10月12日、政府は「国会開設の詔勅」を出し、10年後の国会開設を国民に約束した。
長岡の民権運動も、この頃から盛り上がるようになった。14年3月には『北越新報』が創刊され、主筆に草間時福が招かれた。草間は「北越政談演説会」を組織し『吉川町史』第3巻)、各地で演説会を開催した。また同年6月には、『越佐毎日新聞』が創刊され、記者松井広などが盛んに自由民権論を新聞紙上に掲載した。翌15年9月には、山田町長盛座で自由大懇親会が開会された。民権運動に対する弾圧が強まる中で開催されただけに、県下かくちいきから多くの参加者が集まった。この会で集会・言
論・出版の三大自由を求める建白が決議され、135名の署名が集まった。この懇親会に
は、後述する広井一・坂詰四一郎・角田剛一郎などの長岡学校生徒も参加した。
以上述べてきたような長岡の民権運動の盛り上がりを背景に、長岡学校の生徒が自由民権運動に関わっていくことになる。
2 長岡学校と和同会
長岡学校の歴史についてもっとも詳しく紹介しているのが、広井一の「長岡の中等教育」(『長岡教育史料』北越新報社)である。ここでは「長岡の中等教育」をもとに、長岡学校について見てみよう。
写真1 長岡学校の教師と生徒
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明治14年4月、「横町北之屋」で写す。向かって1列目左から2人目が広井一。2
列目左端が広川広四郎。3列目左から4番目が川上淳一郎、右端が角田剛一郎。
(県立長岡高等学校所蔵) |
表1は、明治5年から19年までの長岡学校の変遷をまとめたものである。長岡学校の前身は、明治5年11月に開学した長岡洋学校である。長岡洋学校は、6年6月に柏崎県が廃止されたため、新潟学校第1分校に所属が変更した。9年7月には県が分校廃止の方針を出したため、私立の仮学校として再スタートをきらざるを得なかかった。
表1 長岡学校の変遷
校 名 |
設置期間 |
所属 |
長岡洋学校 |
明治5年11月~6年9月 |
柏崎県 |
新潟学校第1分校 |
明治6年10月~9年7月 |
新潟県 |
仮学校 |
明治9年7月~11月 |
私立 |
長岡学校 |
明治9年12月~15年6月 |
27小区 |
長岡学校 |
明治15年6月~19年5月 |
長岡学校組合
(古志全郡・三島郡41カ村) |
注 本表は、『長岡教育史料』に依拠して作成した。 |
同年12月、長岡以外の27小区が30円ずつ出金し、校名を長岡学校に改めた。このように初期の長岡学校の変遷はめまぐるしく、9年以降は私立に近い形で学校を経営しなければならず、必ずしも順調に存続したわけではなかった。しかし、このことが教員・生徒の意識を自主・自立に向かわしめたことは確かのようである。初期の長岡学校は、発展途上のエネルギーがほとばしる学校であった。
次に、長岡学校の教育内容について見てみよう。明治10年代中頃の学級は本科と簡易別科があり、それぞれ1級と2級に分かれ、本科が5学級・簡易別科が3学級あ
った。簡易別科は、翻訳書を使い地理・物理・化学・動植物を教授した学科であった
が、人気がなく在学生も少なかった。学生数は、全体で約百名位在籍していた(『和同会雑 誌』創立五十周年記念号)。授業料は1ヶ月25銭、食費が1日5銭位であったから現在の授業料に較べれば安かった。家が遠方の学生には寄宿舎が設けられており、広井一・広川広四郎・川上淳一郎・八町(長束)彦三郎等は寄宿舎で生活していた。教科は英語・国漢・数学の3教科で、これが実力に応じてクラス分けされており、1年生でも成績が良ければ上のクラスで受講できた。またもともとが洋学校であったためか、英語の比重が高かった。教科書自体も、表2に見られるように多岐に渉る内容の原書が使われていた。これらの原書は高価のため学校で購入し、生徒に与えられた。原書のため |