1 長岡の自由民権運動 
 明治10年代前半、全国的に自由民権運動が高揚する中で、新潟県の民権運動も県内各地で活発になった。自由民権運動は直接には政府に国会の開設を要求した政治運動であったが、運動の基本的な理念は民衆の権利と自由を獲得することに主眼が置かれていた。明治国家が形成される前のことであり、民衆は政治参加を強く望んだ。なかには少数ながら女性や少年も民権運動に参加することになった。
 新潟県の自由民権運動は、明治13(1880)年山際七司が中心になった「国会開設懇望協議会」からスタートした。この年、二度にわたる国会開設請願が元老院に行われた。翌14年には全県的な民権結社をめざした「越佐共治会」が結成され、8月には高知の民権家馬場辰猪、10月には板垣退助が県内各地を遊説し、いやがおうにも運動が高揚することになる。板垣遊説中の10月12日、政府は「国会開設の詔勅」を出し、10年後の国会開設を国民に約束した。

 長岡の民権運動も、この頃から盛り上がるようになった。14年3月には『北越新』が創刊され、主筆に草間時福が招かれた。草間は「北越政談演説会」を組織し『吉川町史』第3巻)、各地で演説会を開催した。また同年6月には、『越佐毎日新聞』が創刊され、記者松井広などが盛んに自由民権論を新聞紙上に掲載した。翌15年9月には、山田町長盛座で自由大懇親会が開会された。民権運動に対する弾圧が強まる中で開催されただけに、県下かくちいきから多くの参加者が集まった。この会で集会・言 論・出版の三大自由を求める建白が決議され、135名の署名が集まった。この懇親会に
は、後述する広井一・坂詰四一郎・角田剛一郎などの長岡学校生徒も参加した。
 
 以上述べてきたような長岡の民権運動の盛り上がりを背景に、長岡学校の生徒が自由民権運動に関わっていくことになる。

  2 長岡学校と和同会
 長岡学校の歴史についてもっとも詳しく紹介しているのが、広井一の「長岡の中等教育」(『長岡教育史料』北越新報社)である。ここでは「長岡の中等教育」をもとに、長岡学校について見てみよう。

写真1 長岡学校の教師と生徒
明治14年4月、「横町北之屋」で写す。向かって1列目左から2人目が広井一。2
列目左端が広川広四郎。3列目左から4番目が川上淳一郎、右端が角田剛一郎。
(県立長岡高等学校所蔵)

 表1は、明治5年から19年までの長岡学校の変遷をまとめたものである。長岡学校の前身は、明治5年11月に開学した長岡洋学校である。長岡洋学校は、6年6月に柏崎県が廃止されたため、新潟学校第1分校に所属が変更した。9年7月には県が分校廃止の方針を出したため私立の仮学校として再スタートをきらざるを得なかかっ

表1 長岡学校の変遷
校 名 設置期間 所属
長岡洋学校 明治5年11月~6年9月 柏崎県
新潟学校第1分校 明治6年10月~9年7月 新潟県
仮学校 明治9年7月~11月 私立
長岡学校 明治9年12月~15年6月 27小区
長岡学校 明治15年6月~19年5月 長岡学校組合
(古志全郡・三島郡41カ村)
注 本表は、『長岡教育史料』に依拠して作成した。

12月、長岡以外の27小区が30円ずつ出金し、校名を長岡学校に改めたこのように初期の長岡学校の変遷はめまぐるしく、9年以降は私立に近い形で学校を経営しなければならず、必ずしも順調に存続したわけではなかった。しかし、このことが教員・生徒の意識を自主・自立に向かわしめたことは確かのようである。初期の長岡学校は、発展途上のエネルギーがほとばしる学校であった。

 次に、長岡学校の教育内容について見てみよう。明治10年代中頃の学級は本科と簡易別科があり、それぞれ1級と2級に分かれ、本科が5学級・簡易別科が3学級あ
った。簡易別科は、翻訳書を使い地理・物理・化学・動植物を教授した学科であった
が、人気がなく在学生も少なかった。学生数は、全体で約百名位在籍していた(『和同会雑 誌』創立五十周年記念号)。授業料は1ヶ月25銭
、食費が1日5銭位であったから現在の授業料に較べれば安かった。家が遠方の学生には寄宿舎が設けられており、広井一・広川広四郎・川上淳一郎・八町(長束)彦三郎等は寄宿舎で生活していた。教科は英語・国漢・数学の3教科で、これが実力に応じてクラス分けされており、1年生でも成績が良ければ上のクラスで受講できた。またもともとが洋学校であったためか、英語の比重が高かった。教科書自体も、表2に見られるように多岐に渉る内容の原書が使われていた。これらの原書は高価のため学校で購入し、生徒に与えられた。原書のため的に授業の内容もむずかしく、

表2 長岡学校の教科書
著  者 書      名
サーゼント 「リーダー」・「読本」2巻
パーレー 「万国史」
ミッチェル 「小地理書」
クワッケンボス 「小米国史」
グードリッチ 「英国史」・「ビルマン史」
ウェランド 「小経済論」
ピオネ 「文典」
カットル 「人身窮理書」
ロスコウ 「化学書」
ギゾウ 「文明史」
ホーセット 「経済論」
ミル 「代議政体論」・「自由論」・「利学正宗」
スペンサー 「教育論」
注 本表は、蓑輪義門『広井一伝』から作成した。

城泉太郎の英語は変則読みの直訳で、生徒の中には 「意味も解らず、語も覚えられず、七・八辺も口真似して覚えられず、終には涙ぐむ者もあった」(同前「長岡の中等教育」)。

 体育の用具がなかったため、有志で撃剣が行われただけであったが、春・秋には旗奪いが悠久山で行われた。また冬は雪合戦が行われたようであり、この時の模様を15年入学の長部松三郎は、「冬季降雪の際雪陣と称し敵味方双方の間握りたる雪玉を投げ合ひ果ては雪中組打ちを始め上になり下になり奮闘する様実に壮快を極む」と記している(同前『和同会雑誌』)。試験は、月に1回行われる小試験と12月に行われる大試験の2回あった。また試験の成績によって1等から3等まで等級分けされ、賞品・賞金が配られた(明治14年広川広四郎「日誌」及び同前『和同会雑誌』)。

 長岡学校の中で、重要な役割をしたのが和同会であった(本富安四郎「和同会沿革」及び広井一「和同会紀年会に就て」『和同会雑誌』第46号)。和同会は、8年に井上円了が始めたもので、演説・討論を行う校内の学生組織であった。第1・第3土曜日の午後演説・討論会が行われ、教員もたまに出席して演説講話を行っていた。その後井上が上京し和同会は衰退したが、14年3月教員の田中春回等が再興することになる。4月2日に開会された和同会再興第1回は、次のような様子であった。

第一回の和同会の体裁を見るに実に盛んにして、甲論じ乙駁し其説や高尚其弁や雄偉喝 采拍手の声絶ゆるを知らず、此時の演説者甲組大島伊輔・乙組角田剛一郎・丙組長尾平蔵の
三氏にて会を終わりたり、第三回即ち五月七日より番外なる者を設け担任者終るの後ち番外飛入り演説することにしたり、然し此時は佐藤虎之助君一人番外演説者たりしが以後一回毎に番外演説者を増し、年末第十五回目の和同会には番外演説十六名の多きに至り、我れ先きと演説の順番を争ふより抽籤を以て順番定むるに至れり、嗚呼盛んならずや祝せざるべからず(同前「長岡の中等教育」)            
 
 
 時に自由民権運動が全国的に高揚しており、このことも和同会の演説・討論を盛んにし
た。当時在学していた本富安四郎によれば、教師として演説を行った者として城泉太郎・田中春回・長尾平蔵・酒井久三郎等で、生徒で演壇に登った者は佐藤虎之助・広川広四郎・橋本圭三郎・八町(長束)彦三郎・古川松二郎・角田剛一郎・荒川俊造・大島伊輔・広井一・川上淳一郎・土田虎太・小林鉄之輔・白井浜吉等で、佐藤・広川・橋本がもっとも多数を占めた(前掲「和同会沿革」)。このように和同会は、生徒が自らの考えを鍛え表現する場として機能した。この他、新聞・雑誌の購読会「学友会」・「夕親会」がつくられた。また、学生間で雑誌発行が行われた(
本富安四郎書簡、川上淳一郎・広井一宛、明治15年10月16日)。「盛文社」はこの学生雑誌発行組織で、広川の「日記」に「盛文社規則下案」が記されている(前掲明治14年広川「日誌」)。これによれば、組織は社長一名・論説掛一名・雑報記者二名・投書掛一名・出納掛(原文は不明、文意から判断)一名・筆記者一〇名で、職員は投票で選ばれ再選されることのない民主的な組織であった。社長の仕事は、「各員ノ投書ヲ取捨シテ之ヲ整ヒ之ヲ筆記者ニ付シ、社員ノ欠席ヲ調ブベキコト」であった。目的は「当地ノ事情珍談」をまとめ、学校内外の生徒に発行することにあった。出版は毎月第一・第三日曜日で、一回の出版で一円ずつ出金することになっていた。残念ながら現在盛文社発行の雑誌を目にすることができないためその内容を知ることはできないが、当時の生徒の自主的な動きを知ることができる。

  3 城泉太郎の影響
 長岡学校の生徒に多大な影響を与えたのが、城泉太郎であった(城については、長岡市史双書No37『城泉太郎著作集』に全面的に依拠した)。城は、安政3(1856)年7月17日、河井喜兵衛とチヨの長男として長岡に生まれた。藩校崇徳館で学び、三島郡入軽井村遠藤軍平塾を経て、明治3年慶應義塾に入塾した。その後6年に慶應義塾の教師、9年に徳島慶應義塾分校長、11年4月土佐立志学舎教師を歴任した。長岡学校は11年9月から16年3月までの4年間半、年齢で言えば23歳から28の身心共に一番活動的な時期に在職した。

写真2 城泉太郎

 城の思想形成は、大正15(1926))年10月30日付の吉野作造宛書簡から窺うことができる。城は、明治初年を振り返って「明治六年の征韓論ハ民選議院の献白と変じ、我々ハ大に力を入れて、一局議院を主張し、華族を全廃して男女同権の純正普通選挙を実行すべき理由を審明し、憲法の国約たるべき原理を宣伝し、是と同時に義塾内の教師一両名、学生五六名と折々寄宿舎に会合し、社会共和組(今日ナラバ党ト称スベキナレド、明治初年ニハ党ナド云フ語ハありませんでした)と称する秘密結社見たやうのものを設け、熱心に社会主義と共和主義を研究しました」と述べていた(同前『城泉太郎著作集』)。城の社会主義への接近は、城の執筆原稿「清朝滅亡支那の大統領」にも見ることができる。この原稿には、土地独占の全廃が主張され、鉄道・海運・工業・金融等の独占が社会問題の根元であると説かれていた。山下重一・小林宏氏は、「城の社会改革構想は、地主階級のみならず、すべての経済的独占の排除にむけられていたのである」と指摘している(同前『城泉太郎著作集』)。このことからも、城の思想が急進的なものであったことがわかる。

 さて、長岡学校での城の授業はどのようなものであったのだろうか。広井は、当時の城の授業について「城先生は今日のハイカラ風の好男子で、髪を櫛目正しく梳り、衣紋正しく羽織袴にて悠揚迫らず教場に臨み、英書の講義を始めらるヽ時は、其弁舌の爽快明晰は勿論、夫れに調子付けての講義だから学生を恍惚たらしむと云ふて宜しかった」と述べた(前掲「長岡の中等教育」)。授業での城の影響が、いかに大きかったかを物語る話である。城はさらに和同会でも、自由民権論を生徒に鼓吹した。広井は、和同会で城が「魯国虚無党演説、仏国革命論、米国独立論」を演説したこと、さらに討論会で交詢社の「私擬憲法按」を議題とし、「普通選挙の利害如何、一局議院と二局議院の可否如何、等の問題は数回を重ぬるに至り、恰かも憲法制定会を見るが如き有様」(前掲広井一「和同会紀年会に就て」)であったことを記している。このように城の影響は、生徒達には非常に大きなものがあった。

  4 長岡学校の青年民権家
 長岡学校に在学した青年民権家を紹介しよう。表3に、紹介する青年の入学年度と当時の生徒数を記した。
入学年度 明治9年 明治10年度 明治11年度 明治12年度 明治13年度 明治15年度
  氏 名  吉田竜太郎⑯  角田剛一郎   川上淳一郎⑬
  広川広四郎⑭
  広井一⑭   坂詰四一郎
  本富安四郎
 八町彦三郎⑱
  生徒数    51名    57名     58名    45名     65名     51名
 注 氏名の後の数字は、入学時の年齢である。
    生徒数は、『長岡市史』通史編近代を参考にした。

   (1)吉田竜太郎
 吉田竜太郎の生年は、不明である。明治15(1882)年9月に、「二十三歳一一月」であることから、おそらく万延元(1860)年生まれだと思われる。住所は、「古志郡長岡殿町卅二番地」になっている(「明治一五年手帳」新潟市山際七司文書)。長岡学校には明治9年に入学しており、10年代中頃には長岡学校を退学していたものと思われる。吉田と自由民権運動との直接の関わりは、三回確認できる。一つは、14年9月2日の馬場達猪等の演説会で、「自由教育ト干渉教育何レガ便ナルヤ」の論題で討論会が行われた際、「自由教育論」の立場で論争した(前掲明治14年広川「日誌」)。二つめは、一年後の九月23日の長岡の演説会で各地の民権家とともに、「政党ノ必要ナルヲ論ス」で演説した。論題の趣旨
は、「方今政党ノ樹立スルニ非ラスンハ社会ノ頽勢ヲ挽回スル能ハサル所以ヲ論ス」であった(前掲山際「明治15手帳」)。三つめが15年11月に高橋基一と竹内正志が遊説した際、吉田は「国権拡張ノ手段」で演説が予定されていたことである(「越佐毎日新聞」明治15年11月29日)。

 吉田は病気の身で運動を行っていたらしく、16年3月3日の有志懇親会挨拶で自らの病状を、「身体モ亦病羸虚弱六七年前眼ヲ患ヒ屡医ヲ東京ニ訪フモ其効ヲ得ス所謂不治ノ症ナル歟、加フルニ一昨年ノ冬都下ニ在リテリウマチス症ニ罹リ荏苒百日ヲ経過スルモ未タ全癒ノ効ヲ奏スルナク」(「越佐毎日新聞」明治16年3月7日)と話していた。この病が吉田の寿命を縮めたのか、17年8月17日死去した(『長岡市史』通史編下巻)。

   (2)角田剛一郎
 角田剛一郎についても、生年は不明である。出身村は南蒲原郡山崎新田(現三条市長
嶺)、長岡学校には明治10年に入学している。和同会で演説を行う一方で、自由民運動にもにも接近していった(前掲「長岡の中等教育」)。15年9月20日に長岡で行われた自由大懇親会に、広井一・坂詰四一郎とともに出席している(立教大学小柳卯三郎文
書)。広井は、角田について「米国に渡り開墾事業に従事すること十二三年、帰朝後不遇の境遇に陥り大志を懐き永眠す」(前掲「長岡の中等教育」)と記している。この開墾事業が関係するのか、25年アメリカのヘンリ・ジョージの著書を『土地問題』という書名で翻訳した(前掲『城泉太郎著作集』)。前述したように角田の師であった城泉太郎もヘンリ・ジョージに傾倒しており、角田の一〇数年に及んだアメリカ生活がどのようなものであったのか興味ある課題である。没年は、38年12月16日であった。

   (3)川上淳一郎
 川上淳一郎は、慶応元(1865)年7月、古志郡小日向村(現長岡市栃尾)で庄屋川上喜右衛門とトシの長男として生まれた。明治11年長岡学校入学時は、13歳の少年だった。入

写真4 川上淳一郎

学当初、故郷から離れた寄宿舎生活のため「時々郷里の事を思ひ出し、落涙したる事屡々あり」(「川上淳一郎回顧」『和同会雑誌』第78号)という状況であった。終生の友になる広井は川上との出会いを、「君(川上―横山)は十一年中に長岡中学に入学したが、病のため一時休学し、十二年の春予が入学して間もなく帰校した。長岡校にては室こそ異なったが、朝夕相往来し講堂(行動カ)を共にし運動を共にし散歩を共にして居つた」(広井一
「思ひ出話―故川上淳一郎君に就て―」『思ひ出話―故川上淳一郎君に就て―』私家本)と回想している。友を得、学校に慣れた川上は、急速に自由民権運動に接近していく。川上の青年民権家としての活動について見ると、まず前述した和同会で交詢社の「私儀憲法按」を取り上げた討論会で議長を務めことを挙げることができる(前掲広井「和同会紀年会に就
て」)。どのような経緯から川上が議長に選ばれたのか不明であり、またくわしい議事の内容を知ることはできないが、14年段階で討論会をまとめられる能力を兼ね備えていたのであろう。翌15年に入ると、活発に活動を展開していく。その一つが、15年4月板垣退助が岐阜で遭難した際、見舞い状を八町(長束)とともに送り、政党を結成しているところである。政党名は、「越後長岡小児自由党」(『日本立憲政党新聞』明治15年4月21日)・「青年自由党」(「川上淳一郎回顧」『和同会雑誌』第78号)・「北越青年自由党」(前掲広井「思ひ出話」)とさまざまであり、どれが正しいのかはっきりとしない。また広井はこの政党結成を、「深き意味あってのことにあらざれば」(同前広井「思ひ出話」)として、深い意味があってのことでないように記している。しかし、翌5月に川上が八町(長束)と連名で北辰自由党に「吾輩ハ身ヲ学途ニ委シ、法律之レガ覇束ヲ為スアリテ、未タ自由ヲ得ル能ハズト雖モ、天賦ノ自由豈ニ擲抛顧ミザルニ忍ビンヤ、希クハ盟約条件ヲ明示シ、吾輩ヲシテ今ヨリ心肝ニ銘セシメヨ」(川上淳一郎書簡、北辰自由党宛、明治15年5月5日)と書き送っているところから、当時は真剣に自由民権運動に取り組もうと考えていたようである。

   (4)八町(長束)彦三郎
 川上と連名で名前が出た八町(長束)彦三郎とは、どのような人物であろうか。八町は旧姓長束と言い、三島郡沢下条村長束十五郎の二男として生まれた。生年月日ははっきりしないが、大正6(1917)年11月3日に52歳で亡くなっているところから、生年は元冶元(1864)生まれと思われる。15年に長岡学校に入学しているが、これ以上のくわしいことはわからない。御子孫の八町利七氏の話を含めて、以下断片的にわかっていることを列挙すると次の通りである。

・広川の明治14年「日誌」に八町の名前が出てくることから、隣村だった広川と交流があ った。
・長岡学校入学以前に、馬場辰猪の演説を聴いていた。
・英語の勉強を専門的にしていたらしい。長岡学校卒業後、埼玉県大宮辺りで小学校の校長をしていた。
・体が丈夫でなかった。
・明治20年代中頃に、長岡市槙下の地主八町家に養子に入った。養子に入ってからは、郡役所の仕事をしていた。
 

   (5)広川広四郎・広川幸四郎
 広川広四郎は、元治元年9月、三島郡飯塚村で広川甚右衛門とチヤの二男として生ま

写真5 広川広四郎

た。まれてか亡くなる29年10月22日までの広四郎については、「弔文」(『和同会雑誌』第17号)に詳しい。長岡学校時代については、14年7月から9月にかけての「日誌」から、広四郎の考え・行動を手に取るように知ることができる。特に広四郎は学問に対する思いに強いものがあり、7月末の試験の結果が二等に終わったことに対して次のように深く反省している。

本年二月ヨリノ余ノ行動ヲ見ルニ英学ノ力ハ実ニ二月頃ト異ナルコトナシ、経済学 ハ読メドモ明カラズ(ママ)、化学書ハ只大意ニ通ズトノミ、本年二月ヨリ此迄ノ五ヶ月間ハ丸ル遊ト云フモ不当ニ非ラザルナリ、夫レ勉強ハ競争ヨリ成ル、競争ナケレハ精神ノ眼醒メズ 

 競争心のない長岡学校を辞め東京の学校への進学も考えたが、東京の生徒は「放蕩窮リナシト、然ラハ東京遊学モ不出」であった。この時広四郎の頭は悶々として眠れなかったようであり、「嗚呼如何センカ終夜憂惣北窓寂莫燈火将消既二時感憤ノ余リ茲ニ書シテ以テ他日ノ参考ニ供ス」であった。

 広四郎が学問に対して強い気持ちを抱くようになった原因は、9月1日に鷲頭信恭と話した「飯塚村ノ貧富論」からも窺うことができる。広四郎は飯塚村の税金の少なさを聞き、次のような感想を抱いた。

余之ヲ聞キ嘆シテ此ノ如キ軽税万国其地少シ、而シテ飯塚村ハ土地豊饒人民賢良加フルニ水陸ノ便アリ、故ニ今若シ教育ヲ盛ニセハ飯塚村ノ繁栄期シテ待ツベシ、惜カナ愚民宗教ニ惑溺シ学校ノ何物タルヲ知ラズ、嗚呼有志諸君ヨ諸君豈之ヲ救済スルノ方法ナキカト心中竊ニ歎セリ 

 広四郎が、学校を教育の場だけでなく地域経済振興の場とも考えていたことがわか
る。広四郎が学問に真剣な理由の一つに、地域の問題もあった。

 このように学問に対して強い気持ちを持つ一方で、政治への関心も高めていった。「日
誌」を見ると、七月一五日飯塚村で行われた草間時福の演説会に出席している。また八月二五日には「愛国新誌」を読み、重要な箇所を書き出している。そして九月二日、長岡柳月座で開かれた高知の民権家馬場辰猪と草間の演説会に出席した。滝沢助三郎の演説「急死者ハ蘇生スルノ期アリ」は、「暴政府ハ速ニ斃ルヽヲ以テ人民ノ幸トナス」という過激な内容であった。また佐伯剛平の演説「断罪依証」も「苟モ利益ナケレバ速ニ竹槍席旗ヲ建テ暴政府ヲ転覆スベシ」というもので、革命を想起させるような過激な内容であった。演説が終わった後の討論会論題は「自由教育ト干渉教育何レガ便ナルヤ」で、干渉教育論者の馬場と滝沢と自由教育論者の草間・佐伯・三木実・吉田龍太郎が論争した。感想が書かれていないが、学生だった広四郎には興味深い討論会だったと思われる。九月一七日、広四郎自身も和同会の席上で演説を行った。演題は、「進取論第一篇」であった。

 さて、広四郎に大きな影響を与えたと考えられるのが、兄の幸四郎の存在であった。幸四郎は万延元(1860)年11月21日生まれで、広四郎とは四歳違いであった。兄幸四郎も自由民権運動を支持・推進しており、13年の国会開設請願書に飯塚村から唯一署名していた(江村栄一『自由民権革命の研究』法政大学出版会)。前述した14年9月の馬場辰猪の演説会にも、弟広四郎と出席している。15年4月には島田茂・鈴木昌司・小柳卯三郎等の自由党の指導的メンバーに、新聞創刊を訴えている(広川幸四郎書簡、明治15年4月5日)。

 幸四郎の進歩的な行動は、村内でも見られた。幸四郎は、12年12月図書館の先駆けになる「書籍縦覧舎」の設立を計画した。加入者からの蔵書を目録にし、目録を見て借覧する。借覧する場合は、借覧料を納める。借覧料は、書籍購入費に充てる。「書籍縦覧舎」で閲覧する場合は、舎員外でも無料とする(溝口敏麿「広川幸四郎の『書籍縦覧
舎』設立」『こしじ町史編さんだより』第14号)。非常に民主的な内容の計画であり、貧しい者でも図書を閲覧することができた。おそらく広四郎は、父親代わりになった幸四郎の開明的な影響を強く受けて成長したものと考えられる。幸四郎は、36年3月31日、44歳の若さで亡くなっている。

   (6)坂詰四一郎
 坂詰四一郎は、文久元(1861)古志郡三俵野村で坂詰四郎の子として生まれた(「入社
帳」慶応義塾福沢研究センター)。親戚であった広井一は、坂詰について次のように述べている。(前掲「長岡の中等教育」)。

坂詰四一郎君は古志郡三俵野の人、片田学校に神童の名を博したるの人、師範学校を卒業し入軽井の遠藤軍平氏の塾に入り後ち長岡学校へ入学し専ら英語の修養に力を入れられたが、十三年の秋頃上京慶応義塾に入り矢張秀才の名をを博した。君の記憶力の強記なることと文才の秀逸とは尋常人の及ぶ処でなかった、不幸十五年の冬頃長逝せられた。 

 13年長岡学校に入学した坂詰は、一年も経たない秋に長岡学校を退学した。上京して、翌14年4月には慶応義塾内につくられた「北越青年会」に参加した。「北越青年会」は高田出身の久代幸次郎と竹村良貞が結成した慶応義塾の学生結社で、毎月1回集会して自由に演説や討論を行っていた。会員は、80余名を数えた。「北越青年会」の忘年会で坂詰は祝辞を読み上げた。この中で坂詰は、「生ヤ不材ト雖トモ諸君ト与ニ幸ニ生キテ此有為ノ時ニ遭フ豈一事一業ノ企図ス可キ無カランヤ、今日ノ生跡ヲ留メテ基業ヲ千載ニ遺シ後世ノ明治史伝ヲ読ム者ニシテ吾人ノ業ノ成不ヲ評セシメンコト豈亦壮快ノ一事ナラズヤ」と言い放
ち、国権・税権・法権・民権・憲法・制度・法律・経済について協議していく必要を訴えている。15年9月に長岡で開かれた自由大懇親会に坂詰は参加したが、翌16年2月23日亡くなった(菩提寺の滝谷了明寺のご住職の調査)。

   (7)夏目洗蔵
 夏目洗蔵は、長岡学校の生徒でなかった(ただし夏目自身は、明治28年から33年まで長岡学校で歴史を教えていた)。しかし世代的に見ると川上淳一郎や広井一と同世代であ
り、また残された史料から当時の青年民権家の対外認識を知ることができるた
め、ここで取り上げることにした。

 夏目の生年月日は、不明である。14年の『穎才新誌』に年齢が「十四年二月」
第235号)とあるが、同年の「新潟新聞」の記事では「十六年二ヶ月」(明治14年12月16
日)とあり、どちらが正しいのかはっきりしない。長岡学校教諭の本富安四郎が45年4月亡くなった際の弔文に、「僕は君と阪上校に同窓たりし」(『和同会雑誌』第51号)と記していることから、「十六年二ヶ月」としても、生年は本富の生年の慶応元
1865)年後と考えられる。
 夏目の父は、夏目貞五郎である。貞五郎は河井継之助の従者として北越戦争を最後まで従軍した士族であった。阪上校で学んだ夏目は、12年8月慶応義塾に入学した。在京中に
「中立青年自由党」を結成し(同前「新潟新聞」)、その後は「青年自由党」に入党した
(「青年自由党新誌」第1号)。15年には北魚沼郡明神村で「明治青年文叢」を販売したり(『穎才新誌』第283号)、16年には新潟白山公園で「晴念社談話会」を開いたりしていた(「新潟新聞」明治16年9月12日)。

 帰郷後『穎才新誌』に投稿した夏目の作文「海軍振起論」(第278号)と「朝鮮変報ノ始末」(第279号)から、当時の夏目の国防と朝鮮認識を見ることができる。まず「海軍振起論」で、夏目は日本の国防の現状を「裸体ノ男子東洋ニ横臥シテ身ニ寸袍ノ纏ヒナキカ如シ」とし、砲台・軍艦ともに装備不充分であると考えていた。しかしそれにも関わらずイギリス・ロシア・プロシア・フランス・オーストリア等のヨーロッパ諸国は、「蠺食蹂躙ヲ務メ呑噬
併合逞フシ他ヲ害シ己ヲ益シ梁肉ニ飽カント欲スル者」で、これに日本の軍艦で立ち向かうことは無理であると分析していた。夏目が最も心配していたのは日本の独立であった。日本の独立を脅かすヨーロッパ諸国に対抗していくために、夏目は砲台と軍艦の整備・拡充を訴えた。

 15年7月、朝鮮で旧軍人が日本人教官を殺害し、日本公使館を焼き討ちにする壬午軍乱が起きた。夏目の「朝鮮変報ノ始末」は、この時の対応策である。夏目は、朝鮮は「頑冥党ノ勢力」が強い国と考えていたため、まず「彼レヲ撫育シ彼レガ頑陋ノ迷夢を破掃シ旧弊浸染ノ心ヲ洗滌セシメ」ることが大事であると指摘した。その上で朝鮮に、「改進ノ利」や
「外交」の重要性を認識しながら、朝鮮を「漸々内政ヲ改良シ国俗ヲ養正シテ国威ヲ発揮シ以テ東洋ノ独立国」にすべきであると主張していた。ここには日本を開化の国・朝鮮を頑迷の国と捉え、日本が主導して朝鮮を開化の国にする優越意識が見られるが、ではなぜ夏目は即刻朝鮮を討つ強硬策を述べなかったのであろうか。実は、ここにもアジアの独立を脅かす欧米列国の脅威があった。この点について夏目は、「英露ノ如キ各陰ニ其爪牙ヲ磨シテ亜州ノ状勢ニ注目シ動モスレハ弱肉強食一争場ヲ演セントス豈危難ナラスヤ」と指摘し、イギリス・ロシアの脅威を指摘していた。このような中で日本を始めとするアジア諸国が将来独立を保つためには、「東洋諸国ハ目下互ヒニ連衡ヲ謀リ協合ヲ務メ安危相見テ緩急相助ケザル可ラス」とし、連絡を緊密にし何か事が起きれば助け合う関係を築きあう必要があると訴えていた。夏目にとってアジアの独立を守るためには、朝鮮の頑迷は変革されなければならない課題であった。

  5 青年民権運動の可能性
 かつて私は新潟県の青年民権運動をまとめた際に、無名の数多くの青年が自由民権運動に参加し、演説会を行ったり、新聞・雑誌に投稿して自分たちの考えを表明していたことを明らかにした。彼らすべてが運動の中心になることはなかったが、運動の活性化を果たす役割を担った(横山真一「自由民権運動と新潟の青年」『新潟の百年と民衆』野島出版)。今回県立長岡明徳高校の生徒とまとめた長岡学校の青年民権運動も、この一連の動きにつながるものである。彼らは地元で著名な広井一や川上淳一郎を除けば、広川広四郎・八町(長束)彦三郎・坂詰四一郎・角田剛一郎など地域から忘れさられようとしている人物である。しかし彼らの政治・学問に懸けた情熱は、消えさることはない。わずかばかりに残っている史料からも、このことを知ることが近代国家形成前、青年はあらゆる能力・知識・行動力を傾注し、時代を駆け抜けていこうとした。自由民権運動の裾野には、このような無名の若者の足跡があった。

 しかし、青年民権運動の可能性は、運動の広がりだけを意味しない。今後の課題は、彼らが何をめざしてがむしゃらに行動したのかを明らかにすることである。時代は、天皇制国家が形成する明治二〇年代に入っていく。この時期は、自由民権運動が変質に向かい、国権論が台頭していく時期でもある。成人した青年民権家は、自ら蓄えた知識を社会に還元するための行動に移る。今その全貌を明らかにすることはできないが、ここでその一端を紹介し、今後の課題としたい。

 まず、自らを育ててくれた長岡学校を再建した広井と川上の動きを見てみよう(以
下、特に断らない限り前掲か「長岡の中等教育」に依った)。明治19年4月、「中学校令」が公布され、長岡学校は高田・柏崎・新発田の諸学校と共に廃校の運命を迎えた。当時の長岡学校は前述したように古志・三島郡41ヵ村の区町村費で運営される組合立であった
が、「中学校令」第9条「尋常中学校は区町村費を以て設置することを得ず」に該当したため、その存続が許されなくなった。5月廃校届けが出され、私立長岡学校として再スタートをきることになる。広井は旧長岡学校の職員と共に、校舎・機械・資本金借り入れ、古志・

写真6 広井一

三島
郡35ヵ村からの資本金募集、無駄の廃止、職員のボランティア的奉仕等を盛り込んだ「私議草按」を作成し、学校の存続に全力を尽くした。広井などが学校存続に拘ったのは多くの卒業生を出した長岡学校の自負心もあったと思われるが、それだけでなく地域における教育機関の不足も学校存続の大きな理由であった。「私議草按」は、教育機関の不足を次のように述べていた。

 限あるの学校猶未だ以て辺陬僻地の諸生をして遍く其所てら得せしむるに足らず、且貧屡にして学資充備を欠く者多きを如何せん

 私立長岡学校として、授業内容にも特長を持たせた。すなわち中学生に対し、「未来の立憲的大国民を作るべく早くも法制経済の学科を加へた」のである。具体的には、「本邦法令」の学科で「刑法・治罪法・登記法・公証人規則・本邦法令摘要」、「法律」の学科で「法律言論・法理」、「経済」の学科で「経済原論・貨幣論・租税論・理財学」などが授業で取り上げられた。教師と学生が、「大日本帝国憲法」についてどのような評価を抱いたのか明らかでないが、授業では「帝国憲法などに就ては、随分手厳しき質問を受けシドロモドロの受答を為した」様であった。かつて城泉太郎が交詢社の「私擬憲法按」を素材に討論会を開いたことは述べたが、これに通ずる授業が展開されたようである。近代国家の一員として必要な法律・経済を、いち早く取り入れたところに私立長岡学校の授業の特色があったと言えよう。

 私立長岡学校の特色として、学生の自治を認めたところにも注目する必要があろう。規則を設け、学生が選んだ組長が校則の範囲内での命令権や協議権を有した。このため「生徒は自治的精神を発揮し自奮自励、他より世話を焼かれる様の挙動は決してなかった」と言われている。

 天皇制教育が徐々に浸透していく時代であり、私立長岡学校の教育は限定されたものであることは言うまでもない。しかしこれまで述べた学校運営を見ると、明治一〇年代以来の自由民権期の教育を確認できるのであり、長岡学校は自治・自立を教育の理念として存続していこうとしていたことがわかる。

 さて青年民権運動の可能性を探れるテーマとして、広川広四郎の鉄道建設参画も挙げることができよう。15年3月長岡学校を卒業した広川は、私立築地大学校を経て16年4月工部大学(現東京大学工学部)に入学する。工部大学から19年4月工科大学土木工業科専修となり、22年7月工科大学を卒業した。この大学時代に、全国各地の鉄道を視察する。その後も工科大学大学院に籍を置き、鉄道事業を研究した。大学院時代に九州鉄道の嘱託になり、自ら学んだ学問を実地に応用しようとした。大学院卒業後は25年7月鉄道庁線路取調委員、26年11月逓信省鉄道技師を歴任し、ヨーロッパ視察前の29年10月病のため死去する(前掲「弔文」)。広川は何を思い、鉄道建設に邁進したのであろうか。この問題考える材料として、19年12月31日の年の暮れに広四郎が「日誌」に記した一節を紹介しよう(「日誌」第四輯第一号)。

 余素鄙在ニ生レ田圃ノ間ニ長ス、幸ニシテ道ヲ学野ニ取リ今ヤ大学ノ過程ヲ践ミ学問ノ一部ヲ研究シ、彼人生ニ欠クベカラザル知識ヲ増進スルノ端ヲ得タリ、常ニ往事ヲ回顧スル毎ニ欣喜自ラ措ク能ハザルナリ、明治五年始メテ学ニ小学ニ就キシヨリ爾来十有五年自ラ以為ク得ル処ノ知識少々ナラズト、余ノ始メテ工部大学ニ入ルヤ一日博物場ヲ回覧ス、列品恰モ玩物ノ如ク其ノ何タルヲ弁スル能ハザリキ、踰テ二年予科ヲ終ル、漸ク廊壁ニ列スル図画ヲ見テ自己ノ図画ニ比シ其精粗ヲ判スルヲ得タリ、後チ一年金石・地質・機械ノ大意、橋梁ノ模型図画ヲ見テ其大意ヲ解スルヲ得タリ、由テ私ニ其知識増進ノ少ナカザルヲ喜ビ私ニ其ノ得ル所ヲ以テ異日之ヲ実施シ依テ為ス所アラコトヲ希ヒタリキ
余ヤ今幸ニ大学ニ在リ、世俗ヲ離レテ其志ス所ヲ研究スルヲ得、正ニ意ヲ百事ニ加リ心ヲ推理ニ注キ以テ其知識ヲ拡張シ他日企図ノ基礎ヲ鞏ムルノ時ナリ、(中略)独リ悲ム、世人大学ノ過程ヲ践テ既ニ足レリトナスヲ、夫レ人快楽ナカル可カラズ、恰モ快楽ヲ欲セバ須ク真正ノ快楽ヲ求ムベシ、何ヲカ真正ノ快楽ト云フ乎

 広川が求めた「真正ノ快楽」を明らかにすることが、明治二〇年代の青年民権家の課題である。2001年9月執筆、2011年8月加筆・訂正)

                         

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