しば  た     は ま
 柴  田(吉田) ハ マ
(1862年12月28日〜1940年2月7日)
                           
 
 
    

 日本初の女性弁士。明治13(1880)年3月6日、新発田演説会で男子にまじり聴衆300人を前に、「艱難ハ楽を得るの機」を演説した。時にハマ数え年18歳であった。

 柴田ハマは、文久2(1862)年12月28日柴田敬恭と琴子の長女として生まれた。柴田敬恭は安房勝山藩の士族で、明治に入ってからは中野県・筑摩県・新潟県の官吏を勤めていた。新潟県に出向したのは、明治9年1月であった。

 ハマ第1の人生の転機は、明治6年に松本の開智学校前身の生安寺女学校へ入学したことであった。この時の同級生に、多賀(鳩山)春子がいた。多賀はその後上京し、竹橋女学校を経て女子師範学校へ入学した。このことが、ハマの向学心に火をつけ、14歳の時に一人で東京行きを決行させることになる。さすがに一人旅で心細くなったのか、碓氷峠にさしかかった時、「涙が流れ、戻ろうかと思った」と伝えられている。上京後は、女子師範の教師で藤田東湖の姪にあたる人物の家に家事手伝いで同居させてもらい、勉強をみてもらったようである。その後ニコライ堂で学ぶようになり、ロシアへの官費留学を薦められるまでになった。しかし新潟にいた父敬恭がこれを許すはずがなく、「父危篤」の電報に帰郷したハマに、敬恭は刀を携え座敷の真ん中に座り、「おまえが毛頭露国へ行くのは許さぬ。もし行くのならばおまえを切って、俺も腹を切る」と言って猛反対したと言われている。

 明治13年、ハマは北蒲原郡南浜村太郎代浜の吉田義孝と結婚し、第2の転機を迎えた。吉田家は代々名主を勤めた地域の名望家で、義孝自身も後年加治川治水で功績を残した人物であった。自由民権運動にも感心があったようで、13年4月に弥彦で開かれた「国会開設懇望協議会」に参加していた。ハマが演説した新発田演説会には、義孝も「勉強は開化の母」の演題で演説していた。現在、ハマの民権運動への接近はこの1回の演説しか確認できていない。14年3月長男斌、20年1月正一、23年1月長女まさが誕生しており、3人の子供の養育や家の仕事に追われてそれどころではなかったのかもしれない。

 明治32年4月、ハマは義孝と協議離婚した。3人の子供を残して上京するが、長女まさはこの時まだ10歳だった。ハマ、第3の転機であった。上京後は大妻の裁縫速成科に入学し、裁縫の技術を身につけた。その後台湾で、裁縫の技術を活かして生計を立てた。37年台湾を引き揚げ、熊本第六師団より篤志看護婦として、ハマは参戦した。どのような理由からの参戦なのか不明であるが、戦後「勲6等宝冠賞」を授与されている。晩年、再婚した鮫島宗一郎の縁で財閥根津家との繋がりを深めたようである(鮫島は、根津家の大番頭)。昭和15(1940)年2月7日、急性肺炎で東京牛込区榎町で死去した。享年81歳であった。

*主要参考文献 柴田保元氏作成資料、『光と風、野につむぐ一連譜』野島出版

   

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