すず   き   しょう  じ
  鈴  木  昌  司
(1841年9月18日〜1895年3月30日)

 


  上越地方を代表する豪農民権家。山際七司と並び全国的にも著名な民権家。

 鈴木昌司は、天保12(1841)年9月18日中頸城郡代石村の豪農であった父三郎右衛門と母ちよの長男に生まれた。三郎右衛門は、明治2(1869)年に地域に絶対的な権力を持った触元大肝煎笠原紋右衛門を、戊辰戦争時の助郷で不正があったとして訴えた人物であった。家族は昌司の下に6人の妹と弟がおり、三男が自由民権運動で行動を共にした貞司であった。
鈴木家の土地所有は、明治15(1882)年に田
12町6反余・畑3町9反余であった。

 昌司は、明治初年から地域で文明開化政策を推進していた。5年には新聞購読建言書を作成し、富国強兵を推進するための人材の育成、すなわち学校の設置を強く要望した。9年には第7大区の地租改正をまとめるために、昌司は県と交渉している。昌司の立場は、農民側の立場に立った地租改正の実現であった。

 明治10年中頸城郡原之町で「明十社」が結成され、上越地方の民権運動がスタートした。この時昌司は、幹事の1人に選ばれている。14年9月の馬場辰猪・
10月の板垣退助遊説、11月の「頸城自由党」結成と確実に民権運動は上越地方で広がっていった。15年4月の頸城自由党分裂後、昌司を中心にした若手のグループが同党の主導権を握っていくことになる。「頸城自由党」は、県内の代表的な自由党北辰自由党とも一線を画しており、独自の立場を維持していた。

 明治16年3月、頸城自由党の弾圧事件「高田事件」が発生した。昌司はこの時県会に出席していたため、新潟で捕らわれ高田に護送されている。昌司自身は7月に出獄したが、この事件で赤井景韶・井上平三郎・風間安太郎が高等法院に移さ
れ、八木原繁祉も不敬の罪に問われ、県内の自由党勢力が打撃を受けた。

 明治20年代の条約改正反対運動で指導的立場に立ったのは、昌司などの上越地方の民権家であった。20年9月の昌司と八木原の密議が、改進党を巻き込み11月の「条約改正建白」提出に繋がっていった。これ以降昌司は東京に活動の拠点を置き、大同団結運動を推進した。23年の第1回衆議院選挙で昌司は1146票で当選した。しかしこの選挙は、1位の室孝次郎と36票差、3位の加藤貞盟と28票差の激戦であった。衆議院選挙後、立憲自由党での活動を主張する昌司と国民自由党に入党する山際七司・八木原に分裂した。この分裂は上越地方にも影響し、八木原派の求友会に対し、鈴木派は北辰自由党を結成して対抗した。

 晩年の昌司は、心身共にきびしい状況に置かれた。27年3月の第3回衆議院選挙で31票差で次点に泣いた。さらに同年9月の第4回衆議院選挙でも次点になった。この頃昌司は病中にあったが、明治政府がイギリスと結んだ日英新条約に反対している。昌司の反対の理由は、明治政府が海関税率を議会の協賛を得ずして独断で決めたことにあった。あくまで議会を重視していこうとする昌司の考えを見ることができる。翌28年3月請願書の提出をあきらめた昌司は、31日54歳の若さで病没した。

 *主要参考文献 『吉川町史』第二巻・第三巻、『吉川町史資料集』第四集

   

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