た  むら    かん いち ろう
 田  村  寛 一 郎
(1845年〜1925年4月26日)
                           
 
 
    

 最後の憲法草案を起草した自由民権家。田村寛一郎が起草した「私草大日本帝国憲法案」は天皇主権を強化した憲法草案であったが、死刑禁止の条文はもっとも民主主義的な内容の植木枝盛の憲法草案と寛一郎の憲法草案だけであった。

 田村寛一郎は、弘化2(1845)年田村寛兵衛の長男として南魚沼郡中村に生まれた。田村家は農業を営んでいたが(明治3年の持高1石1斗9升2合)、同時に縮を商いを行う商人でもあった。幕末、寛一郎は京都・江戸へ出て国文学・漢文学・剣道を学んだ。また維新後は書籍を共同で購入し、読書を行った。

 明治8(1875)年に家督を継いだ寛一郎は、縮布製品の品質向上を行いつつ、紺屋と仲買人にも手を出した。12年には「生産会社」を仲間5人と設立し、縮布の改良・増産・販路拡張につとめた。14年まで景気がよく売り上げが増えたが、15年以降不景気になり16年の損失が1500円に膨れ上がった。松方デフレ政策も影響し、20年「生産会社」は解散している。

 寛一郎と民権運動との関わりについては、不明な点が多い。ただ明治13年に
「生産会社役員」名で交詢社に入社していることから、この頃から寛一郎は穏健な立憲政体をめざした運動に接近していったようである。15年1月には寛一郎は、塩沢の有志と内容は不明ながら演説会を開いていた。寛一郎との関わりは明かでないが、13年に塩沢で「同胞社」、15年に芹田で「共心社」、六日町で「行余社」が設立されており、民権運動が低調であった南魚沼郡にも自由民権運動の影響が及びつつあった。寛一郎の18年県会議員当選も、この活動の延長線上にあったものと思われる。県議としての活動は18年から24年、26年から36年まで及んだ。

 明治20年7月1日、寛一郎はみずから起草した「私草大日本帝国憲法案」を各地の有志に配布した。寛一郎が憲法草案を起草した理由は、小柳卯三郎に宛てた書簡によれば国会開設を3年後に控え地方の与論を固めていく必要から起草したと述べている。また送付した有志には、「各章逐条御覧の上充分御訂正」をお願いしていた。寛一郎の憲法草案は、交詢社の「私擬憲法案」に新たに天皇主権6ヶ条を追加したもので、進歩的な内容の草案と言えるものではなかった。しかし民権の項目にも条文を11ヶ条追加しており、その中には信教・言論出版・集会・職業選択・営業・外国人との婚姻・国籍離脱などの自由が認められていた。また財産権の保障、現行犯以外の令状の提示、長期間の拘留・拘禁の禁止、拷問の禁止、苦役から逃れることの自由が定められていた。さらに、第102条で「日本国民ハ如何ナル罪ヲ犯スモ死刑ニ処セラルヽコト無ルヘシ」として死刑を禁止し、第104条で「日本国民ハ其族籍爵位ヲ別タス同一ノ法律ニ依テ其自由権利ノ保護ヲ受クヘシ」として、法の下の平等を規定していた。憲法草案の起草だけでなく、22年には結社「明生会」を結成し演説会を開いていた。

 県会議員の退任後は塩沢町の町長を明治44年から大正4年まで務め、その後は悠々自適の生活を送ったと言われている。大正14年4月26日、81歳で亡くなった。

 *主要参考文献 佐藤和夫・佐藤一彦・志苫純子・滝沢繁「田村寛一郎「私草大
  日本帝国憲法案」とその授業実践」(『研究集録』第7集、県立塩沢商工高等
  学校)、『明治前期の憲法構想』福村出版


   

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