やま  ぐち  けん  じ ろう
 山  口  健 治 郎
(1858年7月3日〜1934年1月16日)
                           
 
 
    

 自由民権運動から転じて炭屋営業を行った異例の自由民権家。後年は東京で炭屋の組合をつくり、「全国薪炭組合聯合会」の会長に就任した。

 山口健治郎は、安政5(1858)年7月3日山口甚九郎とみせの一人息子として南蒲原郡大面村に生まれた。山口家は大面村の旧家で、健治郎で15代続く家であった。明治前後は山口家は、問屋を勤め宿屋を開いていた。

 6歳から12歳頃まで寺子屋で学んだ健治郎は、その後15歳まで村松町の奥畑義平の漢学塾で学んだ。奥畑は、その後自由民権家になる人物であった。若い時の健治郎は活動的で野心に富んだ人物で、地元に腰を落ち着けることを欲していなかった。最初に単身無断で上京したのは、明治6年16歳の時であった。何の宛てもなく上京した健治郎は、丸八砂糖店やガラス屋で1年間奉公して生活費を稼いだ。砂糖店時代は働きぶりが良いところから、フランス行きの誘いを受けたこともあった。翌7年、両親と親戚の迎えで帰郷することになる。父甚九郎の厳重な監督下に置かれたのに拘わらず、健治郎は18歳の時再度家出をした。この時は群馬県沼田で偶然知り合った測量技師の仕事を手伝い、1年間土地の測量や測量会社の経営に参画した。2度の家出は、さすがに健治郎に親不孝の念を強くさせたようであり、後年しばしば親の有り難さを語ったと言われている。

 自由民権運動の高揚の中で、健治郎も運動に参加していくことになる。健治郎が民権運動に関わるようになったのは15年頃からで、5月に北辰自由党入党、9月の長岡自由大懇親会出席、三大自由建白署名等を行っている。また地元でもこれより前に、勇進社・農進会を結成し、社長または会頭に就任していた。この時健治郎と運動を共にしたのが同郷の片野寅太郎であった。16年3月に富山県高岡で開かれた北陸七州有志懇親会にも出席し、間一髪で警察の逮捕を逃れている。17年9月に新潟で開かれた北陸七州懇親会にも出席した。明治20年代の大同団結運動まで健治郎は運動を続けたが、22年10月の県会議員選挙で大竹貫一に1票差で落選し、以来政治から身を退くことになる。

 落選を機に上京したものの、健治郎にやるべき仕事はなかった。ただ、実業で身を立てていく気持ちは固まっていた。何をするか、この時健治郎は儲かる仕事より社会的意義のある仕事を探した。健治郎が考えた社会的意義とは、「社会的地位の低い商売を始め、それを順次引き上げて行」き、「職業に貴賎の無いことを知らしめる」ことであった。その結果考えられたのが炭屋と車引きであった。健治郎が車引きは体力的にできないと判断したのか、結局炭屋を選択することになる。といっても、新参者が簡単に入り込める世界ではなく、炭屋として成功した室田亦七の協力のもと漸く開業にこぎつけた。炭販売のさまざまな苦労の中で、30年頃には宮内省の御用を拝命するまでになった。
                                      健治郎が普通の炭屋と違っていた点は、前に述べた炭屋を選んだ動機、さらに親方徒弟制度が色濃く残っている炭屋に近代的な組合を結成したところにある。43年強硬な反対の中で問屋の組合「東京薪炭問屋同業組合」を発足させ、また小売りの組合「東京薪炭同業組合」も結成した。これらの組合が、後の「全国薪炭組合聯合会」につながっていくことになる。自由民権運動の理念が、炭屋の経営にも脈々と生き続いていた。

 晩年は病気との闘いで、危篤になったことが6回あった。昭和9年1月16日、77歳で亡くなった。葬儀は新潟県人会葬で、会葬者は3千人に達した。
 

  *主要参考文献 大谷美隆『山口健治郎伝』郁堂会

   

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