@本間恂一氏
(『新潟日報』2005年12月25日)

 横山真一氏は、高校教諭の傍ら自由民権運動の研究に打ち込む研究歴二十八年に及ぶ篤学の士である。上越市史・黒埼町史・吉川町史などの自治体史編纂で一貫して自由民権分野を担当し、山際七司・鈴木昌司文書などの調査・研究により数々の実績を残している。

 自由民権運動研究は戦後の歴史学研究が打ち立てた金字塔の一つであったが、戦後民主主義が日本社会に定着するにつれて低調傾向を示してきている。自由民権運動の研究に支配的であった狭隘な政治主義的視点が、次第に色あせていったためである。
 近年、研究の限界性を打破するために運動に内在する多様な階層や思想を析出して、自由民権運動が明治初年の国民各層から沸き起こった一大国民運動であったことを論証しようとする視点が提唱されている。

 このたび「新潟の青年自由民権運動」を刊行した横山氏は、自由民権運動で大きな役割を果たした青年層に焦点を定めて、新潟県の自由民権運動を照射しようとしたのである。

 本書は、序章 本書のねらい▽第一章 維新変革と自由民権家▽第二章 明治一〇年代の青年民権運動▽第三章 明治二〇年代の青年民権運動▽第四章 高校生と学んだ青年民権運動から成っている。

 横山氏は、青年民権家の概念を「これまで運動の前面に顔を出さなかった一〇代半ばから二〇代半ばにかけての青年」と規定し、その多くは教師・学生で学校が活動の舞台であるとしている。さらに第一章では、幕末維新期に村役人として末端行政を経験した代石村(上越市吉川区)の庄屋鈴木昌司の触元大肝煎不正追及事件を紹介して、後に山際七司と並び新潟県の代表的民権家となる思想的推移を明らかにしょうとしている。

 第二章・第三章では新潟県自由民権運動における青年層の運動が詳述されている。横山氏は従来の先行研究を縦糸に、自身が新発見した長岡学校出身の広井一・広川広四郎などの新史料を横糸に、青年の自由民権運動が織り成した興味深い新事実を紹介している。日本史B選択の授業で生徒とともに広井家・広川家文書などを教材にして、長岡の青年自由民権運動を学習した実践記録である第四章にも注目したい。

 筆者は本書から多くを学ぶことができたが、自由民権運動における青年層は本来の「大人」の自由民権運動を前進させるための補完的予備軍か、独立的主体者
か、横山氏のご教示を得たいところである。




A河西英通氏A
(町田市立自由民権資料館紀要『自由民権』19、06・3)

(前略)
三、可能性としての青年民権家―横山真一『新潟の青年自由民権運動』―

 佐久間(耕治)氏と同様に地域における自由民権運動を丹念に追跡している研究者が、本書の著者の横山氏である。氏はすでに新潟県の自由民権運動に関して、『吉川町史資料集―自由民権運動―』(一九九四年刊)、『新潟県の百年と民衆』(野島出版社、一九九年刊)、『黒埼町史』別巻自由民権編(二〇〇〇年刊)、『上越市史』通史編5近代(二〇〇四年刊)などの共著を持っているが、本書は青年民権家の研究に的を絞り、その動向を詳細に追跡している。

 新潟県といえば、一八八三年三月の高田事件が有名だが、本書は高田事件を青年民権運動の象徴として見事に描き出している。本書の特徴としてこの点をまずあげたい。第二章「明治十年代の青年民権運動」によるとその流れはこうである。青年層の活動は一八八一年から活発化し、翌八二年には青年民権運動に「広がり・まとまり・急進化」の傾向が見られた。それらは県内のグループとともに、中央・全国に連なる中立青年自由党や青年自由党などによって担われた。新潟県内の青年民権運動は一八八二年後半から翌八三年初めにかけて合流化する。そのピークが一八八三年二月の自由青年大懇親会である。一方、高田事件のおひざもとの頸城地方には頸城自由党(はじめ頸城三郡自由党)があり、長野県下の博徒や高田の被差別部落とも連携をとりながら、党勢を伸ばしていった。全県的な青年民権運動と頸城自由党の両者をつなぐ存在が赤井景韶たち高田の青年民権家であった。

 高田事件は赤井の内乱陰謀事件、八木原繁祉の不敬罪事件、加藤貞盟の集会条例違反事件の三件から構成されるが、中心は赤井の内乱陰謀事件であり、彼が大臣暗殺を含めた実力行動を企図していたことは明かである。

 高田事件は新潟の自由民権運動に対するダブルパンチであったが、青年層の運動は演説会から懇親会へ、青年から志士・壮士へと名称を変えながらも、一八八四年九月の北陸七州懇親会まで継続し、激化の要望も見られた。

 総じて、明治一〇年代の青年民権家が地域の民権運動に果たした役割は大きく、運動の実行部隊として民権運動を推進していったのである。

 自由党解党の民権運動停滞状況を打ち破ったのは、一八八七年の三大事件建白運動である。三大事件建白運動に関しては、佐久間耕治氏の前掲『底点の自由民権運動』は四大事件建白運動であり、「建白書首都集中運動」と呼ぶべきであると指摘しているが、ともあれ、この運動に多くの青年が参加したことはよく知られている。以下、第三章「明治二〇年代の青年民権運動」によると流れはこうである。天皇への直接奉呈をめざした「上書」提出が不可能な中、高田事件に連座した井上平三郎(八木原繁祉の弟)は檄文配布を企てたが、事前に計画が発覚し、警察に逮捕された。「青年主体の運動」が頓挫した意味は大きい。こうした青年民権家の思想は、安丸良夫氏が指摘する「民権の発展こそが国権の発展」とする「民権=国権」型ナショナリズムから、条約改正・憲法発布・衆議院選挙・国会開設などの現実の政治的課題を潜り抜けることで、「国権の発展こそが民権の発展」とする「国権=民権」型ナショナリズムへと変化したのである。

 以上のような青年自由民権運動研究が提示している主要な論点は二つあるであろう。一つは、青年自由民権家のテロリズム志向である。赤井景韶たち高田の青年民権家は明らかに実力行動を射程に置いた自由民権運動を構想していた。しかし、彼らが単純な「暴力分子」でなかったことは、一八八二年六月の長野県飯山での演説会が中止解散となり、治まりがつかない聴衆が警官に飛びかかろうとした時、赤井たちが取り鎮めたというエピソード(一一五頁)からだけでも肯ける。青年民権家の暴力志向については、他の「激化事件」との関連で再検討されなければならないだろう。この点は、二〇〇三年の第三回新潟県自由民権シンポジウム「高田事件と近代日本」における田さき公司氏の報告「激化事件状況と高田事件―福島・喜多方事件と秩父事件の狭間で―」が問題提起をしているが、筆者もつぎのようにのべたことがある。

 高田事件は、自由民権運動の合法イメージ(言論・出版活動)をくつがえし、実力行使・武装蜂起といったもう一つの姿を浮かび上がらせる可能性を持っている。アメリカの南北戦争に匹敵するような国内戦争=戊辰戦争からわずか十数年しか経過していなかった時期において、幕府倒壊・権力奪取に連なる武力のイメージは現代からは想像できないほど日常的なスタイルだったのではないだろうか。人々は来るべき立憲制を予期しながらも、内乱の経験と記憶のなかで、自由民権運動を見ていた。自由民権運動はそうした合法と非合法、文と武の両面から解析していく必要がある(河西「高田事件―その記憶のされ方―」(『上越教育大学研究紀要』第24巻第1号、二〇〇四年刊、一七九頁)

 さらに言うならば、合法とか非合法といった区別も再検討されるべきかもしれない。近世幕藩制国家から近代天皇制国家への転換が武力行使抜きには進まなかったことを考えれば、武力を非合法イメージに押し込めることは慎重でなければならないだろう。なぜならば、明治国家の正当性を承認することは、それを創出することになった戊辰戦争を頂点とする一連の軍事の正当化につながるからである。武力や軍事が孕む近代性・文明性あるいは革命性は国家権力の側においても自由民権運動の側においても、共通に認識されていたことではないだろうか。武力=非合法という図式は戦後的な価値観であって、当時の実体とは異なるのではないだろうか(藤木久志『刀狩り―武器を封印した民衆―』岩波書店、二〇〇五年、参照)。

 この点は青年民権家における「国権=民権」型ナショナリズムにつながる。すでに明治一〇年代の青年民権家に共通して、圧倒的な西欧崇拝とアジア蔑視があったと横山氏は指摘するが、明治二〇年代には「国権の発展こそが民権の発展」とする「国権=民権」型ナショナリズムへと変化する。これは日清・日露戦争への呼び水であり、隣接諸国への武力行使・軍事発動を可能にしたのは、武力や軍事が新しい秩序を生み出す源泉であるという理解があったからではなかろうか。

 論点の二つめは、青年自由民権運動の挫折の意味である。この点に関しても筆者はつぎのようにのべたことがある。およそ政治運動というものが次の世代に継承されなければ自然消滅せざるをえないように、自由民権運動においても世代交代・継承のメカニズムを確立することは必至であった。青年民権運動とは自由民権運動の青年版ということだけではなく、未来の自由民権運動を築くための保証であり希望だったのである。その回路を確保するか、切断するかは民権派と権力とが当然切り結ぶ焦点であった。その意味では、高田事件は「歴史の分岐点のひとつ」(安丸良夫)として存在していたといってもよいだろう。(前掲「高田事件―その記憶のされ方―」一七九頁)

 ここには現代日本において青年運動・学生運動が停滞あるいは不在であるという筆者なりの認識が反映されている。近年、戦後社会運動における青年運動・学生運動(あるいは若者文化)を回顧するとともに検証する作品が数多く出版されている。そうした現代史にも学べば、青年自由民権運動の具体的な動向をさらに調査するとともに、それが自由民権運動全体の中でどのような位置にあったのかという問題も浮上してくるだろう。自由民権運動の新たな発展の可能性を秘めていた青年民権家たちが「年輩の民権家」とどのような関係にあったのか。自由党や改進党といった政党指導部にとって青年民権家はどのように映っていたのか。構造論的世代論的な分析が必要である。(後略)



B福井淳氏(町田市立自由民権資料館紀要『自由民権』19、06・3)

(前略)
 さて、細分化された研究状況であるが、前述のように久々に新しい研究テーマとして青年論が登場している。その民権研究者からの初めての労作が横山真一著『新潟の青年自由民権運動』である。横山氏は新潟県自由民権シンポジウムを河西英通氏らと担うなかで、同書をまとめられた。その意味では、同書は新潟の、ひいては「民権一二〇年」の運動を代表する一研究となった。横山氏は、「これまで十分明らかにされてこなかった」明治一〇年代の青年層の活動と、彼らが成人した二〇年代の活動を通じて、「自由民権運動全体の性格」を再検討しようとする。その結果、同氏は明治一〇年代に「運動の実行部隊」として青年民権家が運動を推進し、男女同権論に賛同しつつも、「圧倒的な西欧崇拝とアジア蔑視」意識があったことを明らかにした。また二〇年代には、安丸氏のいう「民権=国権」意識に基づく天皇崇拝の「愛国心」が生まれていったとする。

 このように、青年層の活動を豊富な地域史料を用いて着実に掘り返すなかで、民権運動の隠れた担い手を、正と負の側面を併せて提示することに成功された「民権百年」運動での「掘り起こし」を継承しつつ、新井編著では十分すくえなかったテーマについての説得的な実証研究を進めた研究である。ただ、惜しむらくはこの新潟での折角の結論を全国の青年民権運動とどのようにリンクさせるかという視点が不十分であり、それがあってこそ「自由民権運動全体の性格」再検討が可能となるであろう。今後の研究に期待するとともに、同書が刺激になり、全国的に青年民権運動研究が活況を呈することを期待したい。(後略)




C野澤志寿栄氏
(『新潟史学第55号、06・5)

 
昨年一一月、東京で「自由民一二〇年フォーラム」が開催された。そこでは「これからの自由民権運動はどうあるべきか」「新しい自由民権像とは」という、問いかけがなされた。その東京フォーラムで、報告者として新潟での研究活動を報告した横山氏が、このほど『新潟の青年自由民権運動』を著された。
 本書では、自由民権運動の前面に顔を出さなかった一〇代半ばから二〇代半ばの青年たちに着目し、これまで十分に明らかにされてこなかった明治一〇年代の青年層の活動と、青年たちが成人する明治二〇年代にどのような活動を展開したかを明らかにすることを目的としている。
 本書の構成と、概要は次のとおりである。

 序章
 第一章 維新変革と自由民権家
 第二章 明治一〇年代の青年民権運動
 第三章 明治二〇年代の青年民権運動
 第四章 高校生と学んだ青年民権運動
 まとめと展望

 第一章「維新変革と自由民権家」は、青年民権運動の序章として、鈴木昌司を例にとり、県下の代表的な民権家の維新期の動向を明らかにしようとしている。鈴木の門閥世襲批判には、西洋思想の影響が見られ、また、ナショナリズムの萌芽を見ることができるとしている。

 第一節「明治二年の触元大肝煎不正追及事件」では、鈴木の実父である三郎右衛門が起こした触元大肝煎不正追及事件を取り上げ、この出来事が鈴木に大きな影響があったとする。

 第二節「明治四年の郷長批判」では、保坂貞吉の郷長笠原克太郎批判を紹介している。

 第三節「明治五年の大・副区長世襲批判」では、鈴木昌司の笠原克太郎の副区長就任に対しての門閥世襲批判を紹介している。鈴木は、地域のリーダー像を選ぶ際に、「私恩」にとらわれず、それまでとは異なる合理的な方法を提起したとする。

 第二章「明治一〇年代の青年民権運動」では、県内の青年自由民権運動の全体像とその性格を明らかにすることが目的とされている。この章では、掘り起こし作業で発見された広井一や広川広四郎の史料や「中川元日記」が用いられている。

 第一節「青年民権運動の高まりと弾圧」では、明治一四年から一六年までの青年層の活動を追っている。

 第二節「長岡学校と青年民権運動」では、長岡学校の和同会を例に、教師や生徒の思想や行動を、演説・討論会、作文から明らかにしている。

 第三節「頸城自由党と青年民権運動」では、弾圧強化のなかで急進化が進んでいく頸城自由党のなかでの青年民権家の存在と活動、そして高田事件との結びつきについて論じている。

 第四節「高田事件後の青年民権運動」では、高田事件後も、形を変えつつt継続された運動を追っている。また、あわせて松方デフレ期の青年民権運動の主張、徴兵令改正と青年の関わりについてわりについて述べられている。

 第三章「明治二〇年代の青年民権運動」では、明治一〇年代に展開された青年民権運動のその後、どのような動きを示したのかについて論じている。特に、青年民権家の天皇観・愛国心・ナショナリズムを明らかにすることが試みられている。明治二〇年代には、青年層が民権運動全体のなかで中核を占め、社会的影響力を増していく。そして、思想において青年層が主体となり、「民権=国権」型ナショナリズムから、「国権=民権」型のナショナリズムに変化したと指摘する。

 第一節「明治二〇年代の井上平三郎と広井一」では、井上平三郎の檄文配布未遂事件と、広井一の条約改正運動を追っている。

 第二節「北越青年倶楽部の結成と活動」では、自由党系活動家が中心となった北越青年倶楽部の結成と活動を、創刊された雑誌「第廿世紀」の論説と時事問題を中心に、彼らの主張をまとめている。

 第三節「小松邦治郎の天皇観・国家観・憲法観」では、小松の原稿から、彼の天皇観・国家観・憲法観をみている。小松にとって、天皇は絶対的な存在であり、国民の「愛国心」を通して国家の勢力を確乎なものにしようとした。また、また、大日本帝国憲法は「人間社会」の時代に平和的に発布されることに意味があり、内容は問題ではなかったと指摘している。

 第四節「広井一と改進派」では、未公開の広井の条約改正断行の建白書を紹介している。広井が、条約改正断行の立場へと変化した理由は、衆議院選挙を目前にして自由派との立場の違いを鮮明にしようとし、少しでも改正を進めたいという現実的な思惑があったとしている。第一回衆議院選挙における第五区の改進派の候補者選定は、最終的には青年民権家によって行われたとする。また、広井の事業家としての展開も示されている。

 第五節「井上平三郎の在米活動」では、井上の渡米後の日本人差別とハワイでの参政権回復運動について述べられている。

 第四章「高校生と学んだ青年民権運動」は、横山氏が勤務する高校での四年間の授業実践の報告である。「選択日本史B」の授業において、生徒たちと地域史の掘り起こしから、報告集の発行、報告会の開催までの記録である。この授業実践の過程で第二章・第三章で使用された、広井一や広川広四郎の新史料が発見されている。

 現在の高校生たちが、明治の同世代の青年たちが何を考えていたのかを史料を通して学ぶことにより、何を感じ、学んだかとても興味深い。また、報告会を開催することにより、地域の歴史が、地域へ還元されていく。そして、何よりも報告を行った高校生にとっても大きな自信となることだろう。同じく教壇に立つ者として、多くのことを学んだ。

 本書により、これまで語られることの少なかった青年層による自由民権運動に光が当てられた。青年層の存在が、新潟県下の自由民権運動を盛り上げたと言えるだろう。一方で、壮年層の活動とはどのような関係であったのか、思想には相違があるのかなど検討が必要ではないだろうか。壮年層は、影響力が増し活動の主体となっていく青年層をどのように見ていたのか、壮年層からの視点もやはり重要であろう。この壮年層との関係をより鮮明にすることが自由民権研究の課題のひとつであろう。

 また、本書は、自治体史の編纂作業や、広井一・広川広四郎の史料の発見など、著者の地道な地域の掘り起こし作業によって書かれたものである。改めて、史料に向き合うことの重要性を考えさせられた。

 東京フョーラムでもあったように、自由民権運動研究は転換期に直面している。現在、改めて自由民権運動とはどのような運動であったのか、新潟県下の自由民権運動はどのような構造であったのか、構築し直す時期がきているのではないか。このような時期に本書は重要な問題提起をする一冊である。ぜひ御一読をすすめたい。尚、理解不足の点など多々あるかと思われる。著者、読者の方々のご寛恕いただければと思う。



D河西英通氏B(『歴史評論』NO678、06・10)

 自由民権運動研究の「停滞」が指摘されて久しい。分厚い研究史を一挙に塗り替えるような大文字で筆太の自由民権像が出てくるとは思えない。しばらくは小文字で筆細の自由民権像を多様に分析することが求められているのではないか。その際のキーワードが「地域」と「世代」だろう。前者はもとより、後者についても近年、興味深い研究が生まれているが、本書は二つのキーワードをクロスさせて生れた実証的で刺激的な研究である。

 著者の横山氏は新潟県自由民権運動研究の第一人者であり、『吉川町史資料集―自由民権運動』(一九九四年)、『新潟県の百年と民衆』(野島出版、一九九九年)、『黒埼町史 別巻自由民権編』(二〇〇〇年)、『上越市史 通史編5近代』(二〇〇四年)などを著しているほか、二〇〇一年から二〇〇四年まで開催された新潟県自由民権シンポジウムの企画・立案・実行を一手に引き受けた若き研究者である。

 本書は全四章からなり、新潟県の青年民権家の研究に的を絞り、その動向を詳細に追跡している。新潟県といえば、一八八三年三月におこった高田事件が有名だが、本書はこの事件を青年民権運動の象徴として見事に描写している。第二章「明治一〇年代の青年民権運動」によれば、青年層の活動は一八八一年から活発化し、翌八二には青年民権運動に「広がり・まとまり・急進化」の傾向が見られた。それらは県内のグループとともに、中央・全国に連なる中立青年自由党や青年自由党などによって担われた。新潟県内の青年民権運動は一八八二年後半から翌八三年初めにかけて合流する。そのピークが一八八三年二月の自由青年大懇親会であ
る。

 一方、高田事件のおひざもとの頸城地方には頸城自由党があり、長野県下の博徒や高田の被差別部落とも連携をとりながら、党勢を伸ばしていった。全県的な青年民権運動と頸城自由党の両者をつなぐ存在が、赤井景韶たち高田の青年民権家である。高田事件は赤井の内乱陰謀事件、八木原繁祉の不敬罪事件、加藤貞盟の集会条例違反事件の三件から構成されるが、中心は赤井の内乱陰謀事件であり、彼が大臣暗殺を含めた実力行動を企図していたことは明らかである。

 高田事件は新潟県自由民権運動にダメージを与えたが、青年層の運動は演説会から懇親会へ、青年から志士・壮士へと名称を変えながらも、一八八四年九月の北陸七州懇親会まで継続し、激化の要素も見られた。総じて、明治一〇年代の青年民権家が地域の民権運動に果たした役割は大きく、運動の実行部隊として民権運動を推進していった。

 自由党解党後の民権運動の停滞状況を打破したのは、一八八七年の三大事件建白運動である。三大事件建白運動に関しては、「建白書首都集中運動」という呼称も提起されているが(佐久間耕治『底点の自由民権運動』岩田書院、二〇〇二年)、この運動に全国の青年が多数参加したことはよく知られている。

 第三章「明治二〇年代の青年民権運動」によれば、天皇への直接奉呈をめざした「上書」提出が不可能な中、高田事件に連座した井上平三郎(八木原繁祉の弟)は檄文配布を企てたが、事前に計画が発覚し、警察に逮捕された。「青年主体の運動」が頓挫した意味は大きい。こうした青年民権家の思想は、安丸良夫氏が指摘する「民権の発展こそが国権の発展」とする「民権=国権」型ナショナリズムから、条約改正・憲法発布・衆議院選挙・国会開設などの現実の政治的諸課題を潜り抜けることで、「国権の発展こそが民権の発展」とする「国権=民権」型ナショナリズムへと変化したとされる。

 本書が提起している重要な論点として、青年自由民権家のテロリズム志向がある。赤井たち高田の青年民権家は明らかに実力行動を射程に置いた非合法的な自由民権運動を構想していた。しかし、合法とか非合法といった区別は再検討されるべきかもしれない。近世幕藩制国家から近代天皇制国家への転換が武力行使抜きには進まなかったことを考えれば、武力を非合法イメージに押し込めることには慎重でなければならないだろう。明治国家の正当性の承認がそれを創出した戊辰戦争を頂点とする一連の軍事の正当化につながるのならば、武力や軍事が孕む近代性・文明性あるいは革命性は、国家権力の側においても自由民権運動の側においても、共通に認識されていたと考えられるからである。

 この点は青年民権家の「国権=民権」型ナショナリズムにつながる。すでに明治一〇年代の青年民権家に共通して、圧倒的な西欧崇拝とアジア蔑視があり、明治二〇年代には「国権の発展こそが民権の発展」とする「国権=民権」型ナショナリズムへと変化すると横山氏は指摘する。そうしたナショナリズムは日清・日露戦争への呼び水となるが、武力や軍事が新しい秩序を生み出す源泉であるという理解があったればこそ、隣接諸国への武力行使・軍事発動が可能になったのではなかろうか。青年自由民権運動の負の側面を直視するとともに、青年自由民権運動が度重なる弾圧によって挫折・変質していった過程にも注目したい。近年、戦後史における青年運動・学生運動を回顧・検証する作品が数多く刊行されているが、そうした現代史にも学んで、全国各地における青年自由民権運動の具体的な動向を調査して、それが自由民権運動全体の中でどのような位置にあったのかという問題を浮上させる必要がある。第四章「高校生と学んだ青年民権運動」は、横山氏が勤務先の生徒たちと取り組んだ教育実践の記録であるが、これ自体が現代の自由民権運動であろう。歴史研究の感動と醍醐味を若い世代に継承していくことの重要性にも学ばされる一書である。
  


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