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シベリア鉄道の旅 2002
〜 766kmの旅 〜

                                                          
アイコン  ロシア極東の窓口、ハバロフスク
   ヨーロッパの街の雰囲気が漂うハバロスクの街を案内して
もらった後、レストランでの早めの夕食を食べ、シベリア鉄道に
乗るためハバロスクの駅に着いた。

 ハバロフスクは、ロシア極東の窓口の都市である。
人口はガイドブックでは、62万人と書いてあるが、街を案内して
くれた日本語のガイドさんは、周辺地域も含めるのか80万都市
と説明していた。

 新潟からハバロフスクへは、週2往復の定期国際便が飛んで
いる。 夏場は、これがもう1往復増便され、青森県からも臨時
便が飛んでいる。
 新潟からは、飛行機で約2時間の街。
 8月のハバロフスクの気温は、あまり新潟と変わらないようだ。

 今回の旅は、わずか3日間の1人旅。
 シベリア鉄道に乗るため、旅行会社にお願いし、パック旅行の
オリジナルとして、2泊3日の旅のスケジュールを組んでもらった。

 昨日夕方、定期便で、ハバロフスクに着いて、ホテルに1泊。
今日は、1日ハバロフスクのアムール川や郷土誌博物館など、
ハバロフスクの街の名所を、現地ガイドさんからたっぷり案内
してもらった。

 この旅の目的は、2つ。1つは、新潟から国際定期便が飛ぶ
街、ロシアのハバロスクとウラジオストックを見ること。2つ目は、
世界一の鉄道、シベリア鉄道に乗って見ること。

 本来、シベリアの大地を数日掛けたゆっくりまわれば良いの
だが、日程がとれず、普段のツアーの3泊4日、4泊5日より短い
2泊3日の旅、それも1泊はシベリア鉄道の夜行でハバロフスク
から、シベリア鉄道の終点都市であるウラジオストックへ汽車の
旅となった。

アイコン  シベリア鉄道、オケアン号
   シベリア鉄道は世界最大の鉄道で、モスクワ〜ウラジオストック
間の9297kmを7泊8日で結ぶ。
 ウラジオストック駅には、モスクワから9288kmというキロポスト
が建っている。(時刻表の9297kmとは少し距離が異なる。)

 今回私が乗ったのは、ハバロフスク〜ウラジオストック間の
766kmを走るオケアン号。
 シベリア鉄道の寝台車は、1部屋に4つのベットがある4人用
部屋の真中に通路があり、向かい合ってイスと兼用のベットが
あり、これが2段ベットで向き合っている。

 私は、1人で初めて乗るということもあり、クラスの上の日本で
いうグリーン車の寝台、ソフトクラスの寝台車に乗ることにした。
ソフトクラスは、2階部分のベットが無く、2人用の寝台車。
 この2つのベットを貸し切れば、自分の好きなように部屋に
カギが掛けられ、治安的にも安全とのアドバイスが日本であり、
それに従い切符を予約してもらうった。
(料金は、99年と数年前の資料だが、ガイドブックによると
ソフトクラス1人53USドル。)

 ハバロスクの駅に着いたのは、午後6時16分。ガイドさんに
よると、夏の観光シーズンなので、休日の移動のために駅は
混んでいるとのこと。
 ヨーロッパの鉄道もそうだが、駅には改札はなく、駅の中の
階段を通って、これから乗る寝台車オケアン号の待つ番線に
ガイドさんとともに向かう。
 列車の前に着くと、車掌さんに切符を見せて、汽車の中へ。
各車両毎に担当の車掌さんがおり、ほとんどが女性とのこと。
私の乗った車両も大柄な女性の車掌さん。

 進行方向に向かって、車輛の右側が通路になって、左側が
各部屋になっている。私の部屋は、6番の部屋で11・12番の
ベット。
 車掌さんとガイドさんが話をして、戻ってきて説明することには、
ベットが2つあるが、使っていいのは1つだけで、備え付けの
マクラやモーフは、1組だけ使うようにとの指示がありました。
 あと、ガイドさんから、車輛の一番前には、トイレがあるのと
トイレは、汽車が駅に止まる数分前に車掌がカギを掛けて
使えなくなるので、注意するようにとの説明があった。
 それと、お茶が欲しければ6ルーブル。紅茶が欲しければ
4ルーブルで、車掌に言うと貰えるとのことだった。

 発車は、午後7時の予定だが、6時半にここまで親切に案内
してくれたハバロフスクのガイドさんとは、この汽車の説明を
受け、別れた。
 まったく、ロシア語の話せない私が、初めて日本語のまったく
無いロシアの世界に来たと思ったら、少し不安になってきた。

 発車まで、鞄を開け荷物の整理をすることにした。
明日の朝までの食料は、早めの夕食で食べきれずレストラン
から持って来たピロシキと、新潟空港でかったペットボトルの
水1本。まあ、夕飯も早めに食べたので、お腹は減ってなかった。

 同じ車輛にどんな人が乗るか不安だったが、いっしょに汽車に
乗りこんだのは、品の良い老夫婦など。 汽車は、始発のこの
駅では、3分の1ぐらいの部屋が埋まるぐらいの混みようだった。
 グリーン車なので、良い人ばかり乗っているようだと、とかって
に思った。

 荷物を整理していると、突然大阪弁が聞こえて来た。
 この車輛の端の部屋聞こえる声から、50歳ぐらいの夫婦が、
女性のガイドさんから、隣の車輛にいるので何かあったら、
連絡してくれとの説明を受けているようだった。

 日本語の通じる客もいるということで、少しほっとした。

アイコン  オケアン号が、発車
   午後7時に汽車が動き出した。
 思った方向と反対の方向に動き出したので、慌ててこれから
向かうウラジオストックは、反対方向と気付いた。
 急いで、向かいあったベットの反対側の席を使うことにした。
マクラは、急いで、今使っていたのと、使わなかったものを
入れかえる。

 発車して5分ぐらいすると、カギの閉まった部屋のノックがあり、
入口のドアーを開けると、雑誌売りのお兄さん。
 言葉もわからないので、手を横に振って断る。

 また、数分するとノックがあった。
ドアーを開けると、車掌さんが切符の点検。2枚あった切符の
紙を持って行った。
 ちなみに、切符は、飛行機の航空チケットに近い大きさの
もの。 もちろん、私には、切符に何が書いてあるかは?

 部屋の窓から外を眺める。
 窓に係った、カーテンもソフトクラスだからと思うが、ロシアの
重厚なイメージのあるカーテンが下げられていた。
 窓ガラスは、冬の寒さ対策のために、2重ガラスになっている
ようだ。

 まだ明るいので、外の街並みの様子が見える。
しばらくすると、線路は、森林の間を走るようになる。
 空には、虹が見える。
 ああ、シベリアの大地をこの汽車は、走っているんだな。
それと、1人でこのシベリア鉄道に乗ることが出来た。と思った。

 何もしなくても、この寝台車にゆられて、14時間すると
ウラジオストックに着く。
 ウラジオストックでは、港街と市場を見て、お昼の飛行機で
新潟に戻る。
 たった3日、実質2日だったが、私の人生で思い出に残る
旅になったなと思った。

アイコン  ビャゼムスカヤ駅に停車
   窓から外を見ていると、街並みが途絶え、木が生い茂り広い
シベリアの大地とも言うべき、風景。
 窓のすぐ下は、反対の線路と、汽車の送電線がどこまでも続い
ていた。
 しばらくすると外には、虹が出ていた。

 その後、8時半頃、2回目に見て虹は、2重になっていた。
 半円のきれいな虹ではなく、下の方の3分の1ぐらいの虹
だったが、虹の幅の3倍ぐらいはなれたところに、もう1つ虹が
出ていて2重になっていた。生まれてはじめて、こんな2重の
虹を見た。


 午後8時50分汽車が、止まる。
 駅の名前は、ガイドブックで調べると、ビャゼムスカヤ駅。
まだ、外は明るい。
 時差は、夏は日本と2時間なので、まだ明るいはずだ。

 お客の多くが、駅に降り始める。
 特急の止まる駅といっても、それほど大きくない。
 2階建ての建物にはロシア語の駅名のほか、建物の脇に
数字が1960と書いている。42年前に出来た建物なの
だろうか?

 駅の前のホームには、小雨の後なので、ビーチパラソルが
立っている。
 駅のホームには、ゆでたジャガイモなり、ピロシキなど、食べ物
露天のおばさんが並んでいた。
 シベリア鉄道では、長距離を旅行する旅人のため、止まる駅毎
に、露天で食品を売っている。日本でいう駅弁に近いものである。
 ただ、私が乗ったオケアン号は、寝台車なので、この露天が
あったのは、このビャゼムスカヤ駅だけだった。

 汽車は、日本と違い、車内のアナウンスは無い。
出発の時も、これから出発するとのアナウンスも無いまま、
いつのまにか、動き出した。
 細かい、駅の停車を示した時刻表も無い。

 ガイドブックで、このビャゼムスカヤ駅に停車するのは
わかるのだが、何分停車するのかもわからない。
 もし、降りて、降りているうちに汽車が発車したのでは、
日本に帰れなくなってしまう。
 ホームに降りないことにしようと思った。

 汽車のまどから、ホームを眺めていると、同じ汽車のお客が
次々に降りる、大阪弁の夫婦も降りて行った。

 駅のホームには、降りないつもりだったが、どうも皆が降りて
いるようなので、少しだけ降りようと思った。車輛の端の降り口
に行くと、車掌がもう出発するので、ダメと止められた。

 その後、降りた人が戻りはじめて、しばらくすると、汽車は、
9時5分に出発した。
 結局、15分の停車だった。

 最初に勇気を持って降りればよかったと思った。
暗くなってきたので、次の駅の停車では、もう駅には降りられ
ないと思った。始めの心配心とは別に、少しもったいなかった
との気分になった。

 最初は、一生に1回のシベリア鉄道と思って乗ったのだが、
 この時には、何年後か、また次の時に、降りればいいやと
思っていた自分に気付いた。

アイコン  いつまでも飽きない窓の風景、雷が横に 
   外の風景も、段々暗くなってくる。
 午後9時をすぎて、外は徐々に暗くなり、夕日の沈む
風景となってくる。
 夕日が沈むのは、反対の汽車の通路側。部屋のドアーを
開けて、通路側の窓を見る。
 他にもお客が外を眺めていたが、ちょうど夕日が沈むときには、
山林の中をだったので、水平線に沈む夕日というのは見れ
なかった。
 夕焼けが林の中へ吸いこまれて行ったのは、午後9時半頃
だった。

 また、部屋に戻って、窓から外を眺める。
 日が沈んで真っ暗になると、まわりに明かりも無く単調な風景
となるが、外を眺めていても飽きない。
 横になりながら、ず〜と外を眺めている。
 時折、対向車線を走る貨物列車がすれ違う。

 やることといったら、外を眺め、止まるたびに汽車の駅を
手帳にメモするぐらいしかやる事は無いのだが、それでも
外を眺めていると飽きない。

 暗い空に、稲妻が光ったかと思うと、その稲妻は、タテに走る
のでは無く、ヨコに走っている。
 ヨコに走る稲妻は、はじめて見た。これも、シベリアの大地の
なせる技なのだろうか?
 理由は、よくわからないが、遠い雷雲から出る稲妻をずっと
見ていた。

 心の中では、これがシベリアの大地なんだと思っていた。

アイコン  夜のシベリア鉄道
   午後10時35分、次の駅に到着。
駅名は、ビキン駅。
 
 もう、真っ暗なので、露天のおばさんはもちろんいない。
駅に降りる人、乗る人も数人だけのようだ。
 汽車は、5分だけ停車して、午後10時40分に出発。

 出発してから、気付いたのだが、さっきまで汽車の中で
流れていた音楽が、止まっていた。
 流れている曲は1つもわからなかったが、出発からずっと
流れ続けた音楽が終わっていた。
 始め、この音楽に気付いたとき、何てサービスがいいんだろ
と思ったのと、寝台車なのに夜中まで流れ続けたら大変だと
思っていた。
 ガイドブックによると、部屋の中に、音のボリュームがあると
書いてあったが、探しもしなかったが、結局わからなかった。


 ガイドブックによると、終点ウラジオストックまで、あと6つの
駅に停車することとなっていた。
 汽車が駅に停車するたびに、駅の建物に書いてある駅名と
停車した時間を書いていた。
 駅名は、駅の建物の中央に書いてある、ロシア語の名前を
手帳に写していた。
 駅の中央がライトアップしているときは、良いのだが、
途中、ガイドブックに書いてない駅にも、停車したようだが、
暗くて、駅名が見えないときもあった。

 部屋の中は電気を消して、すでに暗くしていたので、持って
来た懐中電灯で手帳を照らして、文字を書いた。
 室内灯のスイッチもあったと思うのだが、横になったまま、
どうせ、駅に着いたときだけの灯りなので、めんどうくさくなって
懐中電灯を使っていた。

 結局、ず〜と窓の外を眺めたまま、横になっていたので、
寝たのは、2〜3時間ぐらいしかなかったと思う。

アイコン  ウラジオストック駅に到着
   朝、6時半になって、少しお腹が空いてきたので、とっておいた
ピロシキをここで食べた。

 徐々にまわりも明るくなり、午前7時になると、また列車の中は、
音楽が流れてきた。

 午後7時43分駅に停車。
 駅には、多くの通勤客と思われる人が汽車を待っていた。
終点ウラジオストック駅が、近くなってきたと思った。

 ウラジオストック駅に着けば、ハバロスクのガイドさんから
車輛番号の連絡を受けた、ウラジオストック駅のガイドさんが
迎えに来てくれる予定となっていた。

 午後8時30分駅に着いた。
 到着すると、人が降り始めている。
 どうも、ここが終点のようだが、ここが、ウラジオストックとの
アナウンスなど、まったく無い。
 皆が降りるのを見て、急いで荷物を背負い車輛を降りる。
どうも一番最後に降りたお客になったようだ。

 降りると、ウラジオストックのガイドさんが、走ってきて、
 「列車から、降りてこないので、探しましたよ」と、いう日本語の
迎えの言葉を聞いて、内心「ほっと」してしまいました。

 「すぐ、出発しましょう」と言う迎えのガイドさんに、お願いして、
ホーム中央にある。薄茶色の大理石でできた、モスクワから
シベリア鉄道9288kmを示す、憧れの『キロポスト』を写真に
収めました。

 この後すぐに、クラシックなクリーム色の建物で有名な
シベリア鉄道の終点、ウラジオストック駅を後にしました。

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