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作者のことば−詩と私と境遇−
炭焼小屋の中で弟と私は別にすることもなく、炭を俵
につめながら、感情の通い合わない表情を見合せては顔
をそむけ合っている。
弟はスバイを通して俵に炭を入れている。
私はその俵の小口をふさいでいる。
スバイを通している弟がとつぜんこんなことを言い出し
た。
「んな(君)は毎晩家へ帰ると俵も編まず、本ばかり
読んでいるが、そんなに本を読んで何になるつもりだ。
忙しい時は本を見るのを止めて俵位編んだら良いじゃな
いか。おれだって夜俵なんず編むよりは、んなみたいに
本を読みたいども我慢しているがって(いるんだ)。
んなは兄で家へ残っているのだからそっけに勉強しなく
たって良いじゃないか。おら見たいの二三男こそ、何時
どこへ行ってどんな職につくか解らないと思えば、社会
へ出るために勉強しなければならないじゃないか。
おらあ将来のことを思うとせつなくなって頭が狂いそう
にならあ。だあども、家がぴっばうで困ると言うので我
慢しているがっとう…
おらあ、んなが勉強して悪いというがっちないけれど
も、夜何時までも本を読んでいると、昼ねむったがって
仕事にさしつかわるし、それだけでなく大竹屋さんへ五
万近く借金が毎年の様にあると言うのに、共同購入だ、
生活改善だと言って日手間倒して出ていて大竹屋さんの
前に申し訳ないじゃないか……。
おらあ本当にんながいやになっとう。そりゃ本読めば
ためになることは解っているし、あれだこれだと会合に
出れば、んなは自分のためになるかも知れないけれども、
んながそんなとをしていて誰が五万近い借金を返してく
れると思うか。おり(おれ)がんな見たいに本を読んで
昼ねむたがっていたり、日手間倒してあそんでいたりし
ていたらおら家はどうなると思うか。村の衆は誰もかん
もい手がなくならあ…。
んなはおれがいると思って良い気になっているどもお
れだって来年成人式だし成人式が終れば家になんずいな
いし、んななんずどっけになったって知らないからなあ」
弟の表情は私への激しい怒りと深い悲しみに満ちてい
た。汗とスバイで真黒くなっている弟の顔は泣きぼろめ
ていた。長い間たえかねてはき出す苦悩に満ちた弟のい
かりを私はどう受けとめて良いか解らなかった。
私は弟の抗議して来る気持は解らないではない。もう
弟も来年は満二十才にもなる。早く独立して自営の道を
開きたい気持は解る。然し私を(現二十七才)頭に七人
の兄弟。私が小学校二年の時父が二年間肋膜で病床に倒
れ、五反に近い田を全部売らなければならなかった。私
が小学校を終る時は田が二反の小作、働くのは父と母だ
け六人いるうち四人そろって通学する時の生活はひどか
った。衣類、タンス、売れるものはほとんど売ってしま
った。私と妹と次女とがようやく働けるようになったの
が私が二十さい頃だった。上の妹は小学校を出たまま二
年程家事を手ったって桐生の織物工場へ働きに行き、
そこで二十三才で恋愛結婚した。その頃になって上の弟
も新制中学が終り私と一緒に炭やきが出来る様になった。
この頃次女もとなり村の旅館に女中奉行に行きそこで七
年間奉行し村の大工とやはり恋愛結婚して今東京で暮し
ている。三人とも同じ所へ長く奉行したので嫁入り道具
の一切はその奉行先で祝儀として買って頂いたので実家
では一銭もかけずに済んで助かった。
昭和三十年頃ようやく三男も中学が終り、三人で炭や
きが出来る様になった。が三男はすぐ見付市の農家へ作
男として行き、そこで十五年間奉行して分家させてもら
うことになり落着いた。
昭和三十年頃、二十年間も家のことには手が届かなかっ
たカヤブキの我が家は朽ち果てて自分の家ながら見苦し
いものであった。
見苦しいばかりでなく毎年積雪四メートルの豪雪地にあ
ってもはや危くてそのままにして置けなかった。どうし
ても台所と玄関を改築しなければならなかった。三十年
に台所、三十三年に玄関を改築した。台所が五万、玄関
が十万。もちろん金があっての改築でない。借金である。
十五万の借金の返済は非常に苦しい。次男三男から手つ
だってもらい、ようやく五万近くまでなしくずして来た
のである。
もちろん妹達夫婦がはるばる実家へお盆どまりに来たか
らとて安らかに寝かせるふとんなど一枚もある訳がなか
った。やはり買い求めなければならなかった。一万円は
かかった。家財道具の一切がっさいが不足していた貧し
い家庭に生れ、私達七人の兄弟が育つためにあいた穴の
大きさに今更ながら驚くのである。四男も三十三年中学
を終え、最初はやはり見付の農家へ行ったのだが、農業
がいやでそこを飛び出して今は東京へ左官の年期奉行に
行っている。
こうした中で次男だけが二十才にもなるのに先きに見
込みがあるわけでなく姉達弟達の育つためにあいた穴う
めに手つだわされていなければならないので、そのため
に気持がいら立っている弟の気持は良く解る。弟の言葉
は決してまちがって居るのではない。私は正しいと思っ
た。
たしかに私はもう二十七才にもなっている。青年学級
や青年団活動から身を引いても良い年であるかも知れな
い。私が読書する時間を弟にゆずって私も弟と一緒に夜
なべに炭俵編みした方が良いと思った。然し私はそう思
いながらどうしてもこのことが実行出来ないのだ。私に
も親達や弟に解ってもらいたいことがある。それは、昨
年静岡へ冬働きに行き、四月帰る時古本屋から買って来
た「岩波文学講座」八巻ぞろいを通読して以来農民の中
から生れる農民文学を本当に勉強したくなったのだ。
本当に文学を勉強するとすれば現在の様に十二時間も十
五時間も労働をしなければならない生活ではとてもだめ
であり生活様式を少し変えなければならず、そのために
私は日夜煩悶しているのだ。
そんなある日、私は結婚しないことに秘かに意を決し
た。「弟に私の代りとなって家の後継ぎになってもらい
私は生涯独身で勉強したい。二日働いて一日勉強する様
に、もちろん私は生涯この山峡の二分部落で生活し、
ここで死ぬつもりである」と私の意中をある時、親友に
話したら、友の言うには、君の今の立場から言って少し
無理だし、おそらくそれは村人の笑いものにされるから
もう少し待って見れ。この気持はそのまま自分の中へと
じ込めてしまった。私の口から吐いた言葉はやはり何時
の間にか風のかげんで親達の耳に入ったらしいし、弟の
耳にも入ったらしい。親達は怒っていたと言うし、弟は
こんな山奥で生きるんなら死んだ方が良いと言っていた
そうであることを私もやはり風のかげんで私の耳にもは
いった。私は苦しかった。夕食後田畑を受け持っている
父はカゼ気味と言ってすぐねてしまった。弟の司六も妹
のノリ子もあそびにつかれたのかロバタにごろねしてい
る。母は昼の仕事につかれた体を無理にささえながら夕
食のあとかたづけをやったり、ブタの飼料を作ったり明
朝の朝食の用意をしたり、ロバタにごろねしている妹達
を床に引っぱり込んで自分も床に着くのは何時も十一時
半か十二時である。朝は五時に起きなければならない。
弟はつかれた体を編み台にささえながら暗い表情で明日
の炭俵を編んでいる。私は二階の机に向って、青年学級
文集のガリ板に向ったけれど鉄筆は動かなかった。本を
開いて見たけれども読む気になれず唯ばんやりと壁を見
つめながら今日弟に言われたことを考えていた。
上の文は農民文学二十二号(昭和三十五年八月)に載
った私の文である。私の自己紹介になっていると思うの
で転載した。
詩を書き出して十五、六年になる。私が詩を書き出し
た理由の一つは、青年団で生活記録運動を続けていたら
何時の間にか詩を書くようになったからである。
戦後青年団でやくざ踊りに興じている頃は都市は気の遠
くなる程遠く村は自給自足で貧しく・れでよかった。
しかし昭和三十年頃から都市的生活が村のワラ屋根の中
へ入り込んでのさばって来た。わらじに代ってゴム草履
が入って来た。テレビが入り電気洗濯機が入って来た。
柴とイロリを押しのけて電気コタツが入り、石油ストー
ブが私達の背中の方で油を要求してにらんでいる。農業
生産態勢はそのまま放置され、農村での収入が上らない
まま都市的生活を受け入れさせられるために、どうして
も出稼ぎと言う非人間的な行動をとらねばならなかった。
やがて娘たちはドロくさい農村から足を洗い表面だけは
なやかな都市にあこがれて村を去って行く。
青年たち(二、三男)も娘たちの尻を追うように村を出
て行く。残る長男たちに嫁さえきてが無くなった。年頃
になって嫁の無い生活は味気ない、嫁のない村に農るな
んてあほくさいとやがては長男たちまでも老人たちを引
きづって挙家離村を始めた。
祖国、それはふるさと。ふるさとを拾てることは祖国を
捨てることにも等しい。私は村に残り土に生きることを
決意して開拓地へ仲間入りして鍬を振った。
過疎化する村、開拓の厳しさ、止むを得ない出稼ぎと言
う全くの荒野の中で生きて来た。荒野に生きる友として
私は詩を選んだ。
過疎化する村、出稼ぎは人間疎外以外の何ものでもな
い。
政治とは何か、民主主義とは何か、苦悩とはげしい怒り
で眠れない夜もいくたびかあった。この詩集はこうした
中から生れた。
書く時は夢中で書くのだが、今詩集として自分から手放
すために読み返して見ると都市の論理による農民疎外の
生の姿は描かれているかも知れないが、農民疎外から抜
け出そうとする血みどろの斗いの姿に欠ける所があるよ
うな気がする。力足りないためでもあるが、日常の私の
生活行動にも問題がある。詩は行動である。今後の私の
課題でもある。
私の初めての詩集である。新潟日報論説委員の故中沢
惣吉先生の霊前に捧げたい。
もし中沢先生に逢う機会がなかったらこの詩集は生れな
かったかも知れない。
それは中沢先生から河内幸一郎先生を紹介され河内先生
の卸指導と案内で日本農民文学会へ仲間入りし、
そこで多くの仲間を識り、その多くの仲間の指導と刺激
によってこの詩集が生れたのである。
お世話になった仲間たち、御指導、お力添えをいただ
いた河内幸一郎、藤田晋助、大島養平、平井崇、
安達征一郎、成ケ沢宏之進の諸氏にお礼申上げる。
昭和五十一年九月二十日 岡部 清
著者の横顔
昭和6年5月16日生
昭和21年上条高等小学校卒業
二分部落農家組合長・守門村消防団分団長・
守門村続計調査員等をつとめる。