ISLAM01
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イスラーム歪曲を考える


霜 垣 和 雄

☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆イスラーム歪曲を考える☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆

                   −米国のアフガン攻撃を可能にするもの−                           2001年11月12日
                            9月11日に発生した同時多発テロ事件は衝撃的かつ悲惨な大事件である。だから こそ徹底的に調査を行い、事件の全貌を先ず明らかにすることが先決なのだが、米国 においても、日本においても事態は大きく政治的方向へと傾いてしまった。事件の首 謀者がオサーマ・ビン・ラーディン氏である確たる証拠は示されていないにもかかわ らず、米国は報復軍事行動を素早く決定した。アフガニスタン空爆ですでに多数の罪 なき人々が犠牲になっている。報復軍事行動は「報復の無限連鎖」を招きかねないで あろう。テロを起こした首謀者や協力者が明確になっていないにもかかわらず、何故、 これほど素早く「戦争体制」へと突入してしまったのだろうか。前代未聞のテロに対 する憎しみが渦巻いているのはよく理解できるものの、何故、米国民はいとも簡単に 政府の方針を支持したのだろうか。何故、世界の多くの国々が、そして日本が米国の 軍事報復行動を支持しているのだろうか。  この戦争はテロに対する戦争であり、イスラーム世界に対する戦争ではないと米国 は明言しているが、米国はイスラーム世界にまで出かけて戦争を行っているのである。 この戦争に対して、イスラーム諸国の政府はさておき、イスラームの民衆のほとんど が自分たちの同胞がいわれもなく攻撃され、犠牲になっていると感じているのは事実 である。拙稿では、明確な証拠がないにもかかわらず、米国のアフガニスタン攻撃を 容易にした背景を分析してみたい。  西欧はイスラーム世界から医学、数学、天文学、哲学、ギリシャ諸科学など多くを 学び、中世の暗黒時代から近代へと脱皮できたにもかかわらず、これを覆い隠してイ スラーム像を歪めていることを我々はどれだけ知っているだろうか。欧米のメディア は盛んにイスラームを報道(Cover)するが、実はイスラームやイスラーム世界の真 の姿を隠蔽(Cover)していることを我々はどれだけ知っているだろうか。明確な戦 略のもとに欧米のメディアや学会は意図的にイスラームの歪曲行っているが、日本の メディアは無知と怠慢で欧米のメディアに追随し、結果としてイスラームの歪曲を行っ ていることをどれだけの人が気付いているだろうか。結論から言えば、アフガニスタ ンにおける戦争を容易に可能にした背景には、欧米が長年にわたって繰り広げてきた イスラーム像の歪曲があり、この歪曲の蓄積が迅速な戦争体制を可能にし、底辺で支 えているのである。  以下、日本におけるイスラーム歪曲について考えてみよう。日本人にとってイスラー ムは他宗教であり、異文化である。イスラームを正当に知ろうとする時、我々はどの ような態度を先ず取るべきだろうか。イスラームを知るのに欧米から学ぶべきだろう か。そうではなく、やはりイスラーム世界から直接学ばずしてイスラームとはいかな る教えか、その教えの神髄とは何かを知る由もないことは小学生でも分かることであ る。第三者を経由して異文化を正当に理解することなど決してできないことは明白で あるにもかかわらず、日本のジャーナリズムや多くの研究者は過ちを犯している。ま た、異文化に接する際、非常に重要なことは、己の価値観をできるだけ中立にするこ とである。非常に困難な作業であるが、これなくして正当に異文化を判断・評価する ことは不可能である。このような立場に立ったうえで、イスラームを肯定するような 発言をすると「おまえはイスラム教徒か」あるいは「そんなものは客観的な研究では なく護教論だ」といった侮蔑を込めた短絡的な反応がしばしばある。欧米のキリスト 教徒の学者が仏教研究でその神髄に迫るような成果を上げても「おまえは仏教徒か」 といった短絡的な反応はない。日本人がキリスト教研究でその神髄に迫るような成果 を上げても「単なるキリスト教護教論だ」といった侮蔑を込めた反応はない。何故、 イスラームに関しては事情が異なるのだろうか。先に述べた「歪曲の蓄積」によって 抜き難いほどの偏見が価値観の一部を占めているからに他ならない。  ところで、拙文ではイスラム教やイスラムではなく、「イスラーム」としている。 アラビア語を完全にカタカナに置き換えるのは不可能だが、可能な限り原音に近い形 で表記するのが相手に対する最低の礼儀であると考えるからである。また、アラビア 語の語形変化において長母音は非常に重要であるという理由でイスラームとしている。 「イスラーム教」としないのは、イスラームという名称はクルアーン(コーラン)の 中でそのように規定され、「イスラーム」という言葉自体に「教え」という意味が含 まれているからである。仏教やキリスト教に合わせて「教」をつければ語呂は合うも のの、本質をとらえた名称ではない。また、イスラームの預言者ムハンマドを「マホ メット」、その聖典をクルアーンを「コーラン」などと表記しているが、これは西欧 言語なまりをそのままカタカナ書きにしているのである。このような滑稽な事態が、 日本の日々のイスラーム報道に満ち溢れているのである。  イスラム教(イスラーム)やコーラン(クルアーン)やマホメット(ムハンマド) でも、本質をきちんと捉えていればさほど大きな問題ではない。問題は、イスラーム 世界の動向が報道されるとき、「聖戦」「聖職者」「イスラム原理主義」等があたか も実体があるかのように公然と用いられていることである。以下、これら三つの用語 がいかにイスラームの本質を歪めているか指摘しよう。  

ジハード

 アラビア語に「ジハード」という言葉があるが、欧米のメディアはこれを「Holly War」、日本のメディアは欧米の後追いをして「聖戦」としている。しかし「ジハー ド」とはあらゆる範疇の行為における「努力」あるいは「奮励努力」という意味であ り、「聖戦」や「聖なる戦い」などという意味はない。イスラームの強硬派、あるい は過激派はジハードを「戦いという行為における努力」と意味を狭めて頻繁に使用す ることは否定できない。しかしそれでもジハードには「聖」という意味は含まれては いない。問題は、ジハードを「Holly War (聖戦)」とすることで、忌まわしい過去 をもつ西欧の「神権政治」のイメージを喚起できる点なのだ。明らかにイスラームの 本質を歪曲する目的で、ジハードが「Holly War (聖戦)」とされている。もっとひ どい例もある。話題になっているオサーマ・ビン・ラーディン氏が自ら作成したビデ オが何度かテレビ放映された。彼が話すアラビア語を注意深く聞いたところ「米国に 対して戦うことは真正なる信仰の証である」と述べている部分があった。この言葉は 確かに彼の過激な反米思想を表しているが、この部分で彼はジハードという言葉など 使っていないにもかかわらず、字幕では「聖戦」となっていたのだ。最近「聖戦を標 榜するとはけしからん。暗黒の中世への逆戻りだ」といった論説が目立つ。ジハード を「Holly War (聖戦)」と意図的に言い換えた効果が明らかに日本人の「論者」に も影響を与えている。たかが用語の問題ではないか、と切り捨てることが出来ない重 要な問題を孕んでいることに気付いていただけただろうか。言説はミクロポリティク ス(微細な権力行使)の次元で多大な影響力を行使でき、これが実際の権力行使へと 容易に繋がることは知っておくべきである。

聖職者

 イスラームには「聖職者」は存在しない。イスラームでは唯一神アッラーの前では すべての人間は平等との立場に立ち、アッラーと人間の間に「特別な仲介者」、すな わち「聖職者」を認めることは決してない。これがキリスト教とイスラームの大きな 違いの一つである。イスラームでいわゆる「聖職者」と呼ばれている人たちはアラビ ア語では「ウラマー」と呼ばれている。ウラマーとは「学者」を意味する「アーリム」 の複数形である。つまり彼らは「学者」であり、決して「Clergy(聖職者)」ではな い。もちろんウラマーは、我々が使用する「学者」とは意味構造が異なることは言う までもない。また日本語の「宗教者」でも正確に「ウラマー」を表現できない。なぜ なら、ウラマーは「世俗的な学を修めた学者」と「イスラーム諸学を修めた学者」の 両方を含むからである。ちなみに、ウラマーになるためにある種の宗教的儀式が要求 されるということはない。あくまでも修めた学問の深さと人格と見識の高潔さで判断 され、ウラマーと呼ばれるようになるのである。ではなぜ欧米ではウラマーを 「Clergy(聖職者)」など言い換えるのだろうか。ここにも巧妙な仕掛けがある。近 代以降の西欧キリスト教世界では政教分離が原則となっており、牧師や神父が政治的 指導者になることはまずあり得ない。一方、イスラームでは聖と俗を原則的に分ける ことはなく、伝統的には政教分離という考えは存在しない。ここで注意して欲しいの は「政教分離という考え方が存在しないとは暗黒の中世だ」あるいは「宗教指導者が 宗教に基づいて政治を行うとはけしからん」と単純に考えてはいけないことである。 近代西欧は長い格闘の末に政教分離・議会制民主主義という制度にたどり着いたが、 果たしてこれが絶対普遍の真理であるという保証はどこにもない。他方、イスラーム 世界でも「政体論」を巡って様々な論争が戦われてきており、「イスラーム政体」即 「神権政体」というわけではない。先に述べたように、自分が持っている価値観をで きるだけ中立にした上でこの問題を考えなくてはならない。イスラームでは、諸学に 通じた学者(ウラマー)が宗教上の問題以外にも、社会問題や政治問題に見解を出し たり、政治的指導者となるのは、決して奇異なことではない。ここまで述べれば、イ スラームには聖職者などいないにもかかわらず、欧米が「ウラマー」を「Clergy(聖 職者)」と言い換える理由は明白であろう。「Clergy(聖職者)」という言葉を意図 的に用い、かつ彼らが政治にもかかわっている側面を強調して、これもまた忌まわし い「神権政治」というイメージを喚起させて彼らを貶め、かつ批判を容易にするため に他ならない。

「イスラム原理主義」

 キリスト教に原理主義は存在するが、イスラームに「原理主義」は存在しない。し かしイスラームには「過激派」「極端派」あるいは「急進派」は存在する。「何を奇 妙なことを言うのか。原理主義も過激派も同じではないか」あるいは「これだけ新聞 などでイスラム原理主義が話題になっているではないか」とお思われるであろうが、 宗教社会学的には両者は全く別物である。米国には聖書の一字一句を字義通りに解釈 するキリスト教の一派があり、原理主義(Fundamentalist)と呼ばれている。この原 理主義者達は米国一般社会では、ほとんど理性を持たない人間くらいに見なされてい る。一方「イスラーム過激派」と呼ばれる人達の多くは、社会的・国際的に抑圧され ているか、あるいは欧米の誤った中東政策により人間としての基本的権利を奪われた 結果、極端な思想を抱くようになった人達である。イスラエル軍の不当・不法な弾圧 に武力抵抗をするパレスチナ・ムスリムもいる。確かに彼らはイスラームを拠り所と して武力行使も含めた様々な抵抗運動を行っているが、決して「原理主義者」ではな い。では何故欧米では彼らを「Fundamentalist (原理主義者)」と呼ぶのだろうか。 答えは明白である。「まともな理性を持たない」とイメージされているキリスト教の 原理主義(Fundamentalism)に「訳の分からない宗教」とイメージされているイスラー ムを付けて「Islamic Fundamentalism(イスラム原理主義)」とすれば、否定的な イメージを確実に倍加することができるからである。武力に訴える人達のみならず、 真摯にイスラーム的な道を模索する人達に対しても「イスラム原理主義」というレッ テルを貼り、「理性がない危険な人間」というイメージを与えることができるのだ。 「イスラム原理主義」は捏造された言葉であるにもかかわらず、現在広く使われてい る。この言葉は「右手に剣、左手にコーラン」に次ぐ欧米が捏造したヒット作である と言えよう。  多数の人命が犠牲になる戦争に対して人道主義的観点から戦争反対の声が上がるの は当然である。しかし「聖戦を叫び、聖職者が神権政治を行い、イスラム原理主義者 がテロを画策するイスラーム世界」に対する戦争となると、人道主義者の声は弱まり、 「やつらなど殺してしまえ」という秘めた感情が強くなることは否定できない。意図 的に操作されたこの否定的な感情こそが、アフガニスタンにおける米国の「正当な理 由なき戦争」を支えているのである。  これまで三つの誤った表現について説明してきたが、他にもイスラームを歪曲する ために意図的に用いられている表現が多々ある。しかしこれら三つを押さえておくだ けで、日々のイスラーム報道がいかに歪曲されているか理解できる筈である。日本の 「中東研究者」や「イスラーム研究者」がこれらの用語を使用しているのをしばしば 見かけるが、彼らを似非研究者であると断定しても全く構わない。ところで、テロ事 件以後いわゆる「中東研究者」がメディアに頻繁に登場するが、彼らのほとんどはア ラビア語を知らないのだ。英語を知らないアメリカ研究者やフランス語を知らないフ ランス研究者など決して存在しないのだが、現地語を知らない「中東研究者」が存在 するというのは全く不可思議な現象である。実はこれは不可思議な現象では決してな く、言説レベルで作用している強力な「微細権力作用」(ミクロポリティクス)が 「研究」のレベルにまで浸透している結果なのである。                                    (了)
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