宗教の位相

だが「現代思想」における存在論において、それら脱構築と呼ばれ物語批判と呼ばれる地平に到命的に 現象するニヒリズムは、それそのものを初発として気韻生動し得るのか?云い代えれば思想情況はガラ クタを並べて豊穣と呼んでいるに過ぎないのではないのか?それは〈知〉が庶衆の通奏低音部にまるで 届かない文字通り戯れに過ぎないからだ。およそ人間が人間である限り必ずその生死は不条理と虚無の 中で、語れど叫べどその声は暗黒の虚無の中へと消えてしまうものであり、そうした基底部をそっくり そのまま救いあげて来たものが思想であり宗教であったはずだ、本来は。  だから〈知〉の〈外部〉である庶衆の通奏低音部を繰り込まないものは本質的必然的に駄目であり、 バブル思想宗教が失ってしまった庶衆の社会的歴史的文脈の把え返しこそが必要であり、それを〈物語〉 と呼ぶわけだ。少なくとも古典仏典はそのことを熟知している故に古典仏典として存在し続けているの だ。大乗仏典で云えば、日本の場合は法華経と浄土教典の〈神話〉で語られる智慧が庶衆の通奏低音部 であったことを思い返すべきだろう。それを確か、〈悲しみの連帯〉と呼んだのは高橋和巳であったは ずだ。それは物語や神話のイデオロギーでありつつも、そこを超え無化するものとして既に予め存在し 続けている。その点を少し展開すれば、例えば浄土真宗ならば真宗で、その大乗性を阿弥陀仏への同朋 奉讃として明らかにしつつもその地平に停まってしまうから、自信教人信の本来の同朋の姿が明らかに ならないのだ。それは明治以降のヨーロッパ仏教学から清沢満之、さらに曽我量深から現在へと到る 〈知〉の系譜が、それはそれで大きな成果をもたらしつつ、その〈外部〉たる庶衆とその社会的歴史的 文脈に〈祈り〉の形として展開し得なかったからだ。だから往相は存在するが還相が存在しないことに なる。〈知〉的上昇は社会的上昇を伴いつつ、浄土を荘厳し自己と他者・世界へと向かう〈祈り〉の形 を忘却させる。恐らく丸山照雄が〈鸞密〉を提唱せざるを得なかったのは、そのような事状によるもの と思う。そのことは逆説的な云い廻しになるが、法華経であり浄土教典であることが、同時にそこを超 えた普遍性へと通底することになる。

HOME RETURN NEXT