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宗教の位相
さてそこで祈りの純一とは何なのだろうか?それは無力の自己の発見である。その地平において 無は祈りへと統一される。Being Peace という安心と祈りは汚泥の悲惨の中で生まれる。しかしそ れは何故に現存形であり命令形でもある形を為しているのか?無に安心するときに何故に「永遠で あれ」という形を為すのだろうか?しかも少しの偽りもなく。無が澄明化される時、それはまぎ れもなく美しい。美しいものは永遠である。いずれにしても大乗と密教を巡る謎は解けそうもない が。只、「ポワ」と「ポア」の違いは、その無の澄明化に係っているが、あれこれの現実に生起す る事態に、何らかのファンダメンタルな「理論」で裁断しても仕方がないだろう。只、ひとつだけ 云えることは、無の澄明化は美を為し、その永遠化は理屈を超えた必然であることだけは云える。 だから人々は昨日も今日も、そして明日も祈りを奉げるだろう。ここまで来て、先ほどの浄土真宗 の同朋奉讃が密教的な祈りと少しも矛盾しないことを、わたしは証明し得たのだろうか。いや、そ うではない。真宗ならば真宗の声明・儀式・寺院論は既にそのような形で存在し続けている。その ことを自覚的に論理化していないだけだ。つまりその教学の観念化故に<同朋>の発見に至らないの だ。さて、天台本覚論の〈山川草木悉皆成仏〉はその変容を重ねつつ、例えば曹洞禅ならばその 〈只管打坐・身心脱落〉の中で見出されるのは〈渓声山色〉であるところの身心一如である。そし て法華経においては〈十如是〉によって諸法実相を〈法華一乗〉として〈一念三千〉するわけだが、 その〈久遠本仏〉とは「園林諸の堂閣、種々の宝をもって荘厳し、宝樹花果多くして衆生の遊楽す る」天然自然なのである。同様のことは浄土門においては〈悪人正機〉の中で見出されるのは、真 宗の場合は〈弥陀の本願〉であり、はたまた「観経」では〈十六観想〉による浄土の荘厳であるの だが、その浄土教典そのもののインド的初発においてさえも「大経」第二十八願「知見道場樹の願」 においては菩提樹を荘厳し、〈十六観想〉では丸ごと天然自然を浄土と観想するメソッドそのもの である--わたしは何を云いたいのか?--つまるところ漢訳大乗仏典は〈自然〉という概念と切って も切り離せない関係に在ることだ。つまり親鸞ならば〈自然法爾〉と呼んだ境地は日本仏教の本質 的なところに触れているわけで、それは老荘の〈無為自然〉と関係が有るのか無いのか、東アジア ・モンスーン地帯に普遍的なものと思える。それは〈混沌〉を神の言葉(ロゴス)によって分節化 し存在たらしめるキリスト教文明とは違って〈混沌〉そのものに〈無為〉であることが〈道〉であ り〈法爾〉であると云う。単純に云えば、人格神信仰と自然宗教との弁証に二十一世紀の智慧は在 るのだと思う。この深みと切実さを持たないエコロジー・セラピー論は功を奏さないだろう。 たとえば蒼い空に碧の海に白い頂きに緑の樹林に<永遠>を見るのはわたしひとりではないだろう。
さてところで、二十世紀とは物質文明の「戦争と革命」が大量殺戮を公然と執行させ、人類の悪 しきアスペクトが展開された時代であった。したがってそのオルタナティブな時代潮流が二十一世 紀には求められるわけだが、ここではイスラームの問題を考えてみれば次の様になるだろう。イエ ス・キリストを「神の子」ではなくモ−セと同様一人の預言者と考え、ムハンマドを最後の預言者 とするイスラームにおいては、例えば「仏法僧」を〈聖〉なるものと考え実人生を〈俗〉であると する仏教などとは違って、唯一絶対の〈アッラー〉と実人生の政治・経済・社会生活が密接な結合 を持つことになるわけで、その信仰共同体は国境を越えたものとなる。同様の問題を日本仏教史の 中で考えれば一向一揆や法華一揆の問題となるのだが、それは学問仏教たる奈良仏教や天台・真言 の鎮護国家仏教とは違って、鎌倉仏教の展開としての日蓮の〈娑婆即寂光土〉あるいは蓮如の〈御 同朋〉であるところの在家仏教であっただろう。ただそれらは、国家の内で宗教共同体がどのよう な位相を取り得るのかという、歴史的な限界を持たざるを得ないものだった。「オウム真理教」も 同様の発想から教団共同体の同心円的拡大から伝道を展望し失敗した。そうではない。仏教の国際 交流の積み重ねの中から国境を越えた共同性を創り出せばよいのだ。少なくとも東アジア漢訳仏典 圏においてだけでも。それは帝国主義の「大東亜共栄圏」では勿論ないしマルキシズムの「東アジ ア同時革命」でもない。キリスト教を基礎としたEUに倣った東亜協同体への胎動なのだ。
合掌(二〇〇〇年二月二十二日)
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