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宗教の位相

 さて、ところでわたしはJapanese Buddhistの生活スタイルの問題を論じているつもりなのだが、 それは例えばわたしが門徒で山伏でもあることをそれぞれのファンダメンタリズムとして直接に 語ろうとは全く思わないし、またそれに耳を傾けてくれる時代状況でもないだろう。 問題なのは近代物質文明へのオルタナティブな生活スタイルの提出への日本仏教文化や中国道教文 化の潜在的可能性のことであり、その最小公倍数あるいは最大公約数が<自然=無分別=絶対無> ということであり<自然農法>を直接対置した老子的自然の福岡正信の重要性をつくづくと思う。 ただその対置のスタイルは、近代の<唯一絶対の神>である<弁証法的発展>を頑迷一徹に信奉す る深い「合理性」から自己絶対化するキリスト教文明圏の人が錯誤に錯誤を重ね丁度二千年かけて その虚妄に気付いたそのスタイルによって甚大な被害を受け続けてきたことによって<世界>を獲 得した我ら東洋に位置する者は、すでに「戯れ崩壊に瀕するポストモダンな<世界の都市>を東洋 文化<世界の農村>で包囲し」「前近代(東洋文化)を否定的媒介として近代(ポストモダン)を 超え」るスタイルに秘む権力の制度を知ってしまっている故に、<文化多元主義>そのものを受け 入れ認めることを絶対条件とするところから<世界>を展望する。北半球が南半球を収奪する故に 「北」は豊かさ故に、「南」貧しさ故にニヒリズムに陥る。そのニヒリズムの超克のための<世界 史>への参入が同時に<顛倒夢想>でもあることの自覚が<物語>が同時に<物語批判>でもある 地平の課題である。例えばわたしは真宗カウンセリングを研究しているが、そこで真宗ファンダメ ンタリズムを展開したら、そのこと自体が真宗ではなくなってしまうという背理を常に孕むことに なる。であるから「放任」ではなく<おのずからしからしむる自然>は大変難しいことだがこれを おいて真理はない。荘子はそれを<万物斉同>と云った。人知,人為ではなく、少し長い目で見れ ば「無用の用」こそが一番確かなことなのだ。

以上、清談風の話を連ねたが、最後に云えば、わたしはわたしの虚無と世界へのルサンチマンをど うしても上手く宗教的に昇華出来ない部分を持っている。ユングとロジャースの立場にあるわたし は、世界はどうであれわたしさえちゃんと出来ていれば人生の無意味への絶望から死ななくても済 んだ友が幾人か居た。とりかえしのつかない生涯の負債なのだ。以上の論拠は元々、マルキシズム 神話への「物語批判」としての「現代思想」への反論として企図されたものである。元々、禅・密 教の存在論と法華・華厳・浄土の神話論とは車の両輪なのである。世界の内で自身を見失い仏を見 出したとしても「われわれは何処から来て何処へ往くのか」という共同性の中に「永遠」を看る人 々もいるし、そうではなく「いま・ここ」の中に「光」を看る人も居る。それらを統一的に把握し たかった。その真宗における「近代的」達成は曽我量深の「法蔵菩薩はアラヤ識である」であった が、さて、その今日的展開は残された課題である。

( 2000.4. 8 了)

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