さ    とう   ともうえもん
 佐  藤  友右衛門
(1856年7月25日〜1933年8月20日)
                           
 
 
    

 佐藤友右衛門は、新潟を代表する自由民権家山際七司の叔父にあたる人物であ
る。明治15年に水原の大地主佐藤家に養子に入るまで、七司を補佐しながら民権運動に参加した。

 友右衛門は、安政3(1856)年7月25日山際七兵衛の7男として西蒲原郡木場村に生まれた。旧姓を山際浪江と言い、七司の叔父にあたりながら七司より13歳年下であった。
                                      明治初年の友右衛門の動向は、はっきりしない。ただ明治9(1876)年から11年にかけては学業と新潟汽船会社経営の2つに関わっていたようである。学業については七司の「他出日誌」9年3月6日に「学費金浪江渡」と記載されており、どこで学んでいたのか不明ながら学生だったようである。新潟汽船会社は、七司がこの年の9月に新潟―燕間の中ノ口川で汽船運航した会社である。友右衛門も開業にあたって七司を助け、汽船勇進丸の持主になっていた。学業より新潟汽船会社の方が忙しくなったのであろうか、11年に東京で学んでいた友右衛門は「中学校試業落第ノ報知、今後身体所置方決定ノ趣意ナリ」(「明治11年他出日記」5月9
日)になっている。

 友右衛門は13年4月「国会開設懇望協議会」に参加し、自由民権運動へ関わるようになった。13年の七司の出京中、友右衛門は木場村の家を守り、また七司の弟の面倒を見ながら七司を支援した。友右衛門のもとに送られたきた七司の書簡は、7月8日付・7月30日付・8月16日付・10月5日付の4通が残されている。書簡の内容は、東京での国会開設請願運動の様子や木場村の家族安否・農作物の出来を問うものであった。これに対し友右衛門も家の様子を逐一報告しながら、12月結成の「自由党準備会」について、次のように記した。「この会は、大日本の第二革命である。憲法を広め、私たち民衆の自由を新天地に保存し、外国の高鼻髭面をして二千有余年の我が帝国の堂々たる威光をとどろかせ、また日本の将来の基礎を強固にする一大議会である故、兄閣下よ国家のため耐え変わらない勇ましい力を振るってください。この会をして立派な結果を得ることを切に望みます」。この記述からも、友右衛門の民権運動に懸ける思いを知ることができる。
                                      15年12月、友右衛門は佐藤家の養子に入った。友右衛門を名乗るのは、先代友右衛門が亡くなった後の37(1914)年8月からである。以後、貴族院議員・県農会長・県地主会長を歴任し、農政・治水・耕地開発に功績を残した。

*主要参考文献 『黒埼町史』通史編・資料編3近代・自由民権編

   

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