やま  ぎわ   しち   じ
 山  際  七  司
(1849年1月2日〜1891年6月9日)
                           
 
 
    

 新潟を代表する豪農民権家。明治13(1880)年新潟県の自由民権運動のスタート以来、一貫して新潟を代表する自由民権家として亡くなる24年まで第一線で活躍した。

 山際七司は、嘉永2(1849)年1月2日山際郡司とかほるの長男として西蒲原郡木場村に生まれた。山際家は、天正年間信州から木場に移住して以来、近世に入り代々庄屋を勤めた家柄である。七司自身も、明治3(1870)年10月父郡司が亡くなった後、庄屋に就任している。父郡司は、庄屋の他に大河津分水工事用弁掛として工事の推進に尽力した人物でもあった。自由民権運動にも関わる浪江は叔父にあたり、弟の学平は明治20年代に木場村村長に就任していた。息子の敬雄は、41年の第10回衆議院選挙に当選している。このことから山際家は、地域に大きな影響を与える地方名望家の1つであったことがわかる。山際家の地租額は、明治21年に125円であった。

 七司の43年間の生涯は、4つの時期に分けられる。第1は、多感な少年期を過ごした幕末維新期から明治7年までである。幕末維新期、七司は幕府側の立場から戊辰戦争へ従軍した。さらに明治3年には村の立場から村替え反対運動に関わり入牢した。この年、父の跡を継ぎ大河津分水工事用弁掛になったが、分水工事自体は信濃川沿岸住民の悲願に拘わらず8年3月に廃止になっている。

 第2は、戸長に就任し実業に手を出した8年から、県会議員になる12年までである。この時期の中心をなした活動は、8年から準備が進められ9年9月に開業した「新潟汽船会社」である。結局経営資金の不足や汽船の整備不良により、燕―新潟間の汽船会社経営は失敗に帰することになるが、自由民権運動参加以前の七司の行動の一端がわかる。また11年には、民権結社「自立社」の創立に関わり、12年には県会議員に選ばれ県会で積極的に発言しその存在をアピールした。この県会を通じて、その後民権運動で行動を共にする小柳卯三郎(西蒲原郡東中村)と親密になった。

 第3は、自由民権運動を指導する13年から大阪事件を無罪で出獄する20年9月までの時期である。この時期は、七司は新潟県の代表から全国の著名な活動家と肩を並べるまでに成長する重要な時期であった。特に13年4月に「国会開設懇望協議会」を開催し、自由民権運動をスタートさせてからは、2回にわたる国会開設建白、「東洋自由新聞」創刊、「越佐共致会」結成、馬場辰猪・板垣退助の遊説招致、自由党の結成、「北辰自由党」結成などの県内外の大きな出来事に深く関わり、正に八面六臂の活躍をした。七司の政治活動の全盛期と言ってよいものと思われる。10年代中頃以降は、「高田事件」に見られる官憲の弾圧により政治活動を制限されたが、自由党に対する経済的援助を行い、17年10月の自由党解党に際しては解党反対の電報を打ち党中央に異議を唱えた。

 第4は、大阪事件を無罪で出獄する20年9月から亡くなる24年6月までである。後藤象二郎遊説招致、東北十五州委員会開会、越佐同盟会結成、第1回衆議院選挙当選と、七司の政治活動は順調に進んだ。しかし、23年8月の立憲自由党結成から党運営の主導権をめぐって反主流派を形成し、結局10月反党的な行動を理由に「立憲自由党」を除名されることになる。県内の活動家は七司の性急な行動を戒めたが、これまでの政友と袂を分かって国民自由党に入党していくことになる。この政争が、七司の体を痛めつけたのであろうか。「山際七司文書」には、23年11月4日から亡くなる3日前の24年6月6日までの病状を記した「疾病日記」が残されている。24年6月9日、脾臓肥大症により43歳の若さで山際七司は波瀾の生涯を閉じた。遺言は、危篤に際して看護の者に残した「努力せよ。北陸の諸有志一致協力を以って、後来の方針を誤ることのないように、笑を天下に残すな」であった。

 七司の死去は、県下の政界の一つの終わりを意味した。晩年に国民自由党に参加し政友と袂を分かつことになったが、明治10年代から一貫して七司は新潟を代表して自由民権運動を引っ張ってきた。その七司が亡くなった後、県下の自由党勢力は対外的な主張を強め国権論に傾斜し変質していくことになる。また25年の収賄事件の一つ「稲堀事件」の影響から、自由党勢力の凋落は確実になっていく。まさに時代の節目に、七司は亡くなった。

 昭和28年4月9日、黒埼町の有志が結成した「山際七司先生顕彰会」によっ
て、七司邸隣の満行寺参道脇に「山際七司先生頌徳碑」が建てられた。

 *主要参考文献 『黒埼町史』通史編・自由民権編

   

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