う   かい   いく じ ろう
 鵜  飼  郁 次 郎
(1855年7月21日〜1901年9月27日)
                           
 
 
    

 佐渡を代表する自由民権家。佐渡の利益を主張し実現していく一方で、明治20年代に入り積極的に国権的な運動を展開した。県内の国権派の代表的な人物の一人である。

 鵜飼郁次郎は、安政2(1855)年7月21日羽生甚左衛門の二男として雑太郡竹田村に生まれた。村医の林玄達から漢書を学び、慶応3(1867)年に圓山溟北の門に入り、和漢書を学んだ。明治8(1875)年官立師範学校に入学し、卒業後は東京府立師範学校を経て12年10月まで東京府霊岸島小学校の教師に就任した。

 帰島した郁次郎は、国会開設請願運動を推進する。当時佐渡の国会開設請願運動は、加茂郡の若林玄益を代表とするグループと雑太・羽茂郡の丸山重五郎を代表とするグループに分かれていた。郁次郎はこの中で雑太・羽茂郡グループに属し活動した。13年10月28日、郁次郎等は三郡大親睦会を開催し、会長に重五郎・出京委員に郁次郎が選ばれた。郁次郎の上京は、11月に開会が予定されていた国会期成同盟第2回大会への参加と佐渡国有志290人総代として「国会開設哀望書」を太政官に提出することにあった。新潟に向かう船3艘の内、2艘が沈没し、まさに命をかけた航海になった。請願は、11月から12月にかけて7回にわたって行われたが、大臣に面会することはできなかった。

 請願後は、明治14年10月相川中学校教諭、16年3月佐渡中学教諭に就任した。また教職在職中の16年9月に、郁次郎は加茂郡原黒村の鵜飼家に養子に入っている。義父玲吉は、北辰自由党に入党する党員でもあった。

 明治18年1月、郁次郎は加茂郡の県会議員に当選した。これ以降、郁次郎は独自の運動を展開する。その一つが、佐渡の利益を守るための行動であった。県道佐渡中央線改修工事や24年に実現する越佐間海底電線布設等は、郁次郎が中心になって行った佐渡の利益を守るための運動であった。また島内でも改革を行い、交通の便から郡役所を相川から河原田に移転しようとした。しかしこれが原因で、郁次郎は相川の人から暗殺状を送られたりした。

 郁次郎に見られるもう一つの特徴的な点は、国権的な動きにあった。24年から25年にかけての国権派・国権党への加盟、25年の雑誌『回天』発行と内地雑居講究会の参加を通し、郁次郎は条約改正解決を執拗に追及した。

 晩年は選挙にからむ偽証罪で拘留され、健康を害することになる。明治34年9月27日、子供・親戚を集めて丁寧に遺言した後、亡くなった。享年47歳であった。この13日前に妻直子を東京で喪っていた。地元原黒には、大きな碑「竹田鵜飼君碑」が残されている。

 *主要参考文献 「鵜飼郁次郎君伝」(『佐渡日報』大正8年2月21日)、石
  瀬佳弘「佐渡島における国会開設運動の展開と考察」(『新潟近代史研究』第
  2号)


   

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