やま   ぎわ  とく  へい
 山  際  徳  平
(1861年8月7日〜  ?  )
                           
 
肖像写真未発見
 
    

 新潟を代表する自由民権家山際七司の弟。明治10年代自由民権運動の洗礼を受け、青年民権運動に関わった。

 山際徳平は、文久元(1861)年8月7日山際郡司とかほるの4男として西蒲原郡木場村に生まれた。山際家は、天正年間信州から木場に移住して以来、近世に入り代々庄屋を勤めた家柄である。兄に12歳年上の七司と叔父に5歳年上の佐藤友右衛門がいた。

 
明治11(1878)年6月、徳平は三島郡入軽井村の西経義塾に入学した。西経義塾は儒学者遠藤軍平が経営していた私塾で、七司が学んだ塾でもあった。その後新潟学校を経て、15年に打越校や大河津校で教鞭を取っていた。この頃、徳平は青年民権運動に接近していく。村松町出身で和納校に勤務していた菅原亀三との間で民権論をたたかわせており、15年3月23日付の菅原の書簡に徳兵の「果シテ民権伸暢大勢将タ国権振起セルヤ」という言葉が書き綴られていた。またこの書簡には、松井広吉(村松町)の青年自由党の動向が記されていた。青年自由党は、14年に長倉純一郎(宮崎県)と片桐道宇(村松町)が結成した結社で、15年に新潟で組織拡大をめざしていた。菅原と徳平もその対象だった。この頃徳平のもとには、さまざまな青年民権家から依頼や連絡がきている。4月には、藤田寛平と新喜太郎が教育雑誌『勧善雑誌』への募金要請を徳平に行っている。10月には、井上平三郎(高田)の青年自由運動会開会と富樫猪吉(岩船郡)の葡萄山北自由党盟約が伝えられた。翌11月には、新などが定期的に行っていた自由青年懇親会への参加要請を徳平に行った。このような中で、徳平も運動に関わるようになる。6月4日に北辰自由党が計画した巡回演説の会議に、徳平は出席した。さらに16年2
月、弾圧が強化され運動が孤立分散的になる中で、「地を異にし山川を隔つ」青年が一同に会し、「吾人の進路に荊棘あり之を排撃」することを目的とした自由青年大懇親会が開催された。この会主の一人に徳平も名前を連ねた。会場前の自由の旗と紅色の提灯が、懇親会の様子をものがたっていた。残念ながら、これ以降の徳平の行動はわからない。

 徳平の自由民権運動への参加は、兄七司の影響が大きかった。しかし徳平自身も同世代の青年とさまざまな形で関わりをもちながら、運動を支援してきた。自由民権運動の裾野には、このような無名の若者の行動があった。

 *主要参考文献 『黒埼町史』資料編三近代・通史編・自由民権編

   

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