やま ぞえ  たけ  じ
  山  添  武  治
(1860年9月8日〜1914年6月11日)


 

 
青年期を民権運動に捧げた行動派民権家。明治13(1880)年に国会開設請願運動に参加して以来、山際七司の影響を受けつつ政治活動に邁進した。

 山添武治は、万延元(1860)年9月8日西蒲原郡金巻村で酒屋を営んだ山添源蔵の長男に生まれた。明治6年に、戸主を相続しており、この頃源蔵は亡くなったものと思われる。源蔵は、県内の草莽隊の1つ「金革隊」の一員であった。母ははると言ったが、後妻で実母ではなかった。武治の下には4人の弟と妹がおり、武治は山添家の生活を支える大黒柱であったが、現実には民権運動のためほとんど家を顧みることはなかった。

 武治の民権運動への参加は、13年4月の「国会開設懇望協議会」からであった。この時、武治は弱冠21歳の青年であった。武治の活動が活発になるのは、翌14 年からであった。この年の9月、新潟に遊説に来た板垣退助に従い東北地方をまわって見聞を広めた。そのまま板垣に従った武治は、東京で結成された青年自由党にも関係し在京党員の一人に数えられた。この年の12月には、九州まで足を延ばしていた。翌15年2月に、武治は「吁我北越ノ志士ヨ何ソ奮ハサル何ソ起ラサル」という書き出しで始まる檄文を作成した。この中で武治は、国内外に問題が山積する中で立ち上がろうとしない新潟の人々を批判していた。

 明治21年、武治は北越青年倶楽部を結成して山際七司の活動を支えた。七司が亡くなる直前まで、県内外の情報を七司にもたらしている。

 明治30年代以降は新聞経営に乗り出し、33年「自由新報」を「新潟日報」に改題し、面目を一新した。また39年には「新潟中央新聞」を創刊したが、41年の新潟大火で類焼した。 43年には「新潟毎日新聞」を発刊し、紙面刷新・印刷高速化・ニュース速報などを行い、同新聞の発展の基礎を築いた。  

 ※主要参考文献 『黒埼町史』通史編・自由民権編、『新潟日報二十五年史』

 
 
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