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1945年、 終戦の直前に、水道水のフッ素化を後援する連邦政府が突 然、全力で推進に向けて動き出して来た。その年ミシガン州の二つ の都市が公式に「15歳」の子供たちを対象にしてフッ素によって安 全に虫歯を予防できるか否かの比較研究都市として選ばれた。 そし てグランド ラピッズ市の水道水にフッ素が注入された。 他の早期のフッ素化実験は一般民衆に知らせることもなかったば かりか、 その問題への理解も無いままに実施された。  これらの実験の科学的価値も、それを実施した彼らの倫理性も極 めていかがわしいものであった。例えばマサチュセッッツ州やコネ ティカット州での最初のフッ素化実験(1945―46年)は国が運営する 学校の貧困で知恵遅れの子供たちに実施された。1954年のフロウレ ンス バーミンガムの議会での証言によれば、彼女はマサチュセッ ッツ州のレンサムの州立精神薄弱児童の学校の理事で、彼女の学校 の理事たちは事故が起きるまで飲料水にフッ素が添加されているこ とを知らなかったと証言している[33]。  理事たちは直ちにフッ素化の中止を決めた。「しかし、私がぞー するほど驚いたのはマサチュセッッツ州保健局に、これは実験では ない、フッ素化は継続すると言われたことです・・私は公文書綴り から一通の文書を見つけました。その文書には保健局の代表が公立 学校に行き、 その理事たちとの会合の中ではフッ素化計画に関する 情報は無いと通告したということを知らせる文書でした。 連邦政 府のフッ素化実験をした人々はこれらの子供たちが事故で過剰のフ ッ素を投与されたとは見ていなかった。この学校の職員組合の議長 は、次のように語った「飲料水のフッ素化は学校にパニックを起こ す・・被害にあった少年はパニックに陥った・・彼は被害にあった ことを知っている、 彼はこう言った『ここに来てみろ、おれが腹を 立てたらおまえ達を、どうするか思い知らせてやる』と」[34]。  一方、1946年ミシガン州での政府による15歳児童の実験がやっと 始まったというのにもかかわらず、アメリカの 6つもの都市は水道 水のフッ素化が許可された。 フッ素化という悪いホロ馬車はころが り始めたのだった。 この重大な時期、 長年アルコアの法律専門家で当時年収75万ドル とい天文学的報酬を得ていて[35]、 最近は会社の主任法律顧問と呼 ばれているオスカー R ユーイング がワシントンに到着していた。 ユーイングは恐らくアルコアのフッ素訴訟問題を充分知っていた。 彼はそれまで会社と政府との間での戦時工場建設の交渉を担当して いた[36]。 1947年、 ユーイングは連邦安全庁(後の保健教育厚生省)の首席に 任命されていて、 彼は公衆衛生局に影響を与え得る立場にいた。彼 の下で、公衆衛生局が先頭に立って水道水フッ素化運動は急速に具 体化された。その後 3年間に渡って87都市がフッ素化された。その 中にはミシガン州でのフッ素化実験都市の比較対照とされた都市も 含まれていた。このようにして最も科学的で客観的なフッ素の安全 性と有効性を確かめるためのフッ素化実験はその半ばで完全にかた づけられてしまった。 バーネイ方式の大衆心理操作によってフッ素化は安全な ものとされた。一方、 反対者は永遠に正気でない人々、 熱狂的右翼として大衆の心に刻み込まれた

スピン・ドクター(へ理屈学者)の育て親

このように科学的な研究を無視してフッ素化を急いだことについ ての政府の公式見解は「大衆の要請」だったことになっている。 そ して事実、 これらの87都市での余りにも乱暴なフッ素化のやり方に 対して政府が「フッ素化の利益を否定する意見に対して公平ではな いのではないのか」と苦情を言ったくらいであった。なぜこのよう に熱狂的にフッ素化が歓迎されたかという疑問も、次のような事情 を知れば、実は驚くべきことでもない。というのもオスカー ユー イングのフッ素化運動の宣伝戦略を担当していたのは、あの有名な 心理学者ジクモンド フロイトの姪に当たるエドワード L.バーネ イにほかならなかったのだから[37]。彼女は最近のワシントン ポス ト紙の見出しで「元祖スピン・ドクター」と名付けられている[38]。 バーネイは彼女の叔父さんであるフロイトの理論を宣伝に応用し、 政府のプロパガンダ(宣伝、宣伝活動、特に思想、教義などの宣伝 や誹謗を目的とするものをいう: 1986版イミダスp1384)に応用した 「宣伝の父」として有名なのである。彼女の気の遠くなる程の成功 を収めた不朽の仕事の一つが政府のフッ素化運動なのだ。 彼女は1928年に「プロパガンダ」という本の中で次のように説明し ている「大衆心理を操るメカニズムの仕組み、そして大衆心理が特 別の意図を持った人物、例えば宣伝担当の人物が特殊な思想や商品 を大衆が受け入れる心理状態を作り出したいという場合にいかにし て大衆を操れば良いのか・・[39] 我々の知らない内に、主として、 我々の心理を成型し、我々の好みを変え、我々の考え方の方向をそ れとなく変える人々、大衆心理の目に見えない仕組みを操る者、見 えない政府、これこそが我が国を真に支配する力である・・」と。  さらに「もし、あなたがある集団の指導者に影響をおよぼす事が 出来たなら」と産業界の秘密の依頼人を多く抱えた彼女は続ける 「彼らが意識的な協力しようとするか否かにかかわらず(バーネイ はここの所を強調する)、あなたは揺れ動くかれらに思うがままに 影響を及ぼすことが出来る・・」と。  ビーチナッツ社のベーコンの宣伝マンだったとして、売上促進の ため彼が医学専門家の指導者にいかにして影響を及ぼすかを、バー ネイは次のように書いている「そのような新製品のセールスマンは、 ベーコンを食べることは健康に良いと大衆に知れ渡るように言うよ うに医者たちにそれとなく指示すれば良い。大衆は体についての医 学に関しての事柄は医者を通じて理解しているので、大衆が医者の 言うことを聞いて確実にベーコンを食べるだろうということをセー ルスマンは計算できているからだ」と。  「医者」を「歯医者」に、「ベーコン」を「フッ素」に置き換え てみればにやり方がそっくりだということは明らかだ。 バーネイ方式の大衆心理操作によって一夜の内に、フッ素が大衆に 与える印象は、当時、殺鼠剤や殺虫剤として広く売られていたフッ 素から、慈愛に満ちた政府が提供する輝く笑顔をもたらし、絶対安 全、子供に有効なフッ素へと変わったのだった。 フッ素反対論者たちは頭の狂った人物もしくは熱狂的右翼であると 大衆の心に永遠に刻み込まれたのであった。

右翼組織

 フッ素化に対して様々な立場から政治的に公正を求めて反対の声 が上がった。政府の手による飲料水を使っての大衆投薬だ。しかも 殺鼠剤として名の知られた薬を命にかかわらない病気の予防のため にという話しは、信頼できる科学者、医者や国民のフッ素化への関 心を引き起こした事は言うまでもなく、国中に被害妄想を巻き起こ した。  その上、政治状況が偶然にも左右がねじれていた。左翼の中の元 々フッ素化に反対だった人々は他の反対派から遠い立場にいた。連 邦安全庁の行政官であったオスカー ユーイングは当時のトゥルー マン大統領のフェアデール政策の実行者であり、医療の全国的普及 といった多くの進歩的な政策を押し進めていた。フッ素化政策はそ れらの進歩的な提案と一まとめにされていた。そうなれば、彼の提 案に対しては当然、保守主義者たちから「忍び寄る共産主義」の現 れだという攻撃が起こり、左翼は彼の提案を支持する運動をするこ とになった。その後マッカーシー時代、ジョン バーチ協会とか K.K.Kといった極右翼グループはフッ素化をソ連や政府内部の共産主 義者によるアメリカ人の脳細胞をフッ素中毒にする陰謀だと叫び出 した。 左翼はさらにフッ素化反対の立場から遠のいていった。 「元祖スピンドクター」の指導の下で、フッ素化推進派にとって は全ての反対者を精神錯乱者として一色に塗りつぶすことは簡単な ことだった。そして、フッ素推進派は十分にその役割を果たした。 例えば、広く配布されたフッ素化反対者に関しての書類一式がある。 それにはアルファベット順に尊敬すべき科学者、犯罪者、自然食愛 好家、科学者の協会からあのK.K.Kまでがリストアップされていた。  実際、多くの強力なフッ素反対論者も最初はフッ素化支持者とし て出発している。しかし彼らはフッ素の安全性を保証する証拠なる ものを間近に見た後に彼らの考えは変わったのだ。そして多くの反 対論者はフッ素化が共産主義者の陰謀ではなく、単に資本家のやり 方での、とてつもない規模での詐欺だという見方をするようになっ た。フッ素反対論者の中には環境保護の先駆者と名付けることの出 来る人々がいる。内科医であったジョージ L. ウォルドボットや最 初に政府と産業界が共謀してフッ素汚染被害を大衆の目から隠蔽し たという事を立証したフレデリックB.エクスナーのような人々だ。 多くの反対論者はフッ素化が共産主義者の陰謀ではなく、 単に資本家のやり方でのとてつもない規模での詐欺だ という見方をするようになった。 ウォルボットやエクスナーがフッ素擁護派との対決に生涯を賭け たことは、 歯みがき剤の広告に彼らの主張を無理やり入れたことで も分かる。 エクスナーは重要な証拠資料としてのフッ素訴訟での企業とフッ 素推進派に対する判決をおびただしい数の書類として収集していた。 1978年、彼の死後、彼の収集していた書類は不審火により 消失した[43]。  しかし、信頼出来る反対者も信頼出来ない反対者も全部ひっくる めて、フッ素化推進の悪いホロ馬車にひき殺されてしまった。1950 年には、歯医者、医者、そして実際に全ての指導的な立場の人々と 共にアメリカ公衆衛生局は公式にフッ素化を継続していった。そし てフッ素は殺鼠剤、殺虫剤といったイメージから安全、有効な虫歯 予防の薬へと完璧に変身していったのだ。それ以来、アメリカの 3 分の 2の水道水がフッ素化され、そのようにして毎年13万トンの フッ素が水道水に投入され続けている[44]。同時に、政府は「世界 的なフッ素化」キャンペーンを続けている。  フッ素化によって産業界が我々にもたらした最後に残った利益と は、フッ素の排出を減らすことを余儀なくされた企業がその費用の 一部をフッ素化のために産業廃棄物であるフッ素を都市に売ること で取り戻せるということである。そして、廃棄物の再利用として水 道水に添加されているフッ素としては、とりわけ化学肥料工場から の廃物としてのフッ素が主に使われている[45]。
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