じょう   せん た  ろう 
 城   泉 太 郎
(1843年1月2日〜1891年6月9日)
                           
 
 
    

 教師として学生に多大な影響を与える一方で、明治初年の早い段階で社会主義の考えに近づいた自由民権家であった。

 城泉太郎は、安政3(1856)年7月17日、河井資信とちよの長男として長岡に生まれた。河井家は譜代の家臣で幕末の禄高が90石、河井継之助は親戚筋にあたる家である。資信は藩校崇徳館教師・普請奉行・諸職人頭・請払・郡代官の要職を歴任しており、「実務化的中級武士」であったようである。明治改元後、14代前の中祖である城に姓を復した。

 泉太郎は藩校崇徳館で学び、三島郡入軽井村遠藤軍平塾を経て、明治3年慶応義塾に入塾した。この間に戊辰戦争に参加し、会津・仙台に難を避けている。5年
秋、慶応義塾の大試験で、4・5・6年の試験を受けて合格し、一遍で卒業している。その後6年に慶応義塾教師、9年に徳島慶応義塾分校長、11年4月土佐立志学舎教師を歴任した。長岡学校には11年9月から16年3月までの4年間半、年齢で言えば23歳から28歳の心身共に一番活動的な時期に在職した。

 泉太郎の思想形成は、大正15(1926)年10月30日付の吉野作造宛書簡から窺うことができる。泉太郎は、明治初年を振り返って「明治6年の征韓論ハ民選議院の献白と変じ、我々ハ大に之に力を入れて、1局議院制を主張し、華族を全廃して男女同権の純正普通選挙を実行すべき理由を審明し、憲法の国約たるべき原理を宣伝し、是と同時に義塾内の教師1両名、学生5、6名と折々寄宿室に会合し、社会共和組(今日ナラバ党ト称スベキナレド、明治初年ニハ党ナド云フ語ハありませんでした)と称する秘密結社見たやうのものを設け、熱心に社会主義と共和主義を研究しました」と記している。これが確かだとすれば、明治初年には泉太郎は社会主義を学んでいたことになる。泉太郎の社会主義への接近は、明治27年に成稿した「清朝滅亡支那の大統領」にも見ることができる。土地単税論を支持した泉太郎は、この原稿で土地独占の全廃を主張し、鉄道・海運・工業・金融等の独占が社会問題の根元であると説き、その排除を模索した。

 もっとも長い教師生活を送った長岡学校でも、学生に大きな影響を与えた。泉太郎の授業について、当時学生だった広井 一は「城先生は今日の所謂ハイカラ風の好男子で、髪を櫛目正しく梳り、衣紋正しく羽織袴にて悠揚迫らず教場に臨み、英書の講義を始めらるヽ時は、其弁舌の爽快明晰は勿論、夫れに調子付けての講義だから学生を恍惚たらしむと云ふて宜しかった」と述べている(『長岡の教育史
料』)。授業外でも泉太郎は、学生に影響を与え続けた。当時長岡学校の演説・討論組織和同会で、泉太郎は露国虚無党演説・仏国革命論・米国独立論を演説し、さらに討論会で交詢社の「私擬憲法草按」を議題に取り上げ、普通選挙の利害如何・一局議院と二局議院の可否如何等の問題を議論し、憲法制定会の様であった。この時、議長したのが板垣遭難の見舞い状や北辰自由党に賛同する書簡を出した川上淳一郎であった。

 明治20年代以降は翻訳書の出版に従事し、『通俗進化論』や『済世危言』を出版した。特に『済世危言』は、泉太郎と土地単税論の関係を知る上で重要な本である。『済世危言』はアメリカのヘンリ・ジョージの『進歩と貧困』と『社会問題』を翻訳してまとめたものであったが、ヘンリ・ジョージはイギリスの社会主義運動に影響を与えた土地単税論者であった。

 泉太郎の考えに危険思想を感じたのか、晩年の昭和2(1927)年麹町の憲兵隊が泉太郎を取り調べている。昭和11年1月8日、老衰のため東京で亡くなった。享年81歳であった。

 *主要参考文献 長岡市史双書NO37『城泉太郎著作集』、『長岡の教育史料』北  越新報社、新潟県立長岡明徳高校『長岡学校青年民権運動』第1集

   

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