かわ  かみ   じゅんいちろう
  川  上   淳 一 郎
     (1865年7月18日〜1931年11月9日)
                           
 
 
    

 長岡の自由民権運動を推進した青年民権家。広井 一・長束(八町)彦三郎・広川広四郎・坂詰四一郎等は長岡学校の同窓であり、お互いに切磋琢磨して民権運動に参加した。

 川上淳一郎は、慶応元(1865)年川上喜右衛門の長男として古志郡小向村に生まれた。川上家は小向村の庄屋を勤めた家柄で、喜右衛門は「川上塾」を開き、地域の青少年教育に尽力した。栃尾の民権家斉藤捨蔵も、「川上塾」に学んだ一人であった。

 淳一郎は、明治11(1878)年長岡学校に入学した。翌12年には、50年以上のつき合いを結ぶ広井が入学している。淳一郎は、長岡学校で教頭城泉太郎のもとでミルの自由論やスペンサーの代議政体論を学んだ。14年には長岡学校討論会で交詢社の「私擬憲法案」が議題になった時、淳一郎は議長になった。この時のことを、淳一郎は「福沢諭吉氏の私議憲法を議題として議会の稽古を為せしに、議長何番など唱へて当時の書生としてはハイカラ風ありし由にて城先生笑って後に話されし事ありと云ふ」と回顧している。15年4月板垣退助が岐阜で遭難した際には、見舞い状を長束とともに送り、寄宿舎の部屋の入り口に「青年自由党事務所」の表札を掲げたりした。また同年5月に北辰自由党本部に、「吾輩ハ身ヲ学途ニ委シ、法律之レガ覇束ヲ為スアリテ、未タ自由ヲ得ル能ハズト雖モ、天賦ノ自由豈ニ擲抛顧ミザルニ忍ビンヤ」とする書簡を送っていた。

 明治15年10月、広井とともに上京した淳一郎は東京専門学校で学んだ。帰郷後は長岡学校・県会議員・衆議院議員・地方山林会員農会議員・赤十字支部評議員・北越新報・新潟新聞・栃尾銀行・長岡銀行に関わった。昭和6(1931)年11月9日、突然亡くなった淳一郎の枕元に、真っ先に駆けつけたのは終生の友広井であった。

 *主要参考文献 『とちおと人物』栃尾市、新潟県立長岡明徳高校『長岡学校青
  年民権運動』第1集


   

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