ひろ    い     はじめ
 広  井    一
(1868年9月11日〜1934年1月17日)

                           
 
  

 市島謙吉と共に、改進党系の代表的な活動家。教育・政治・実業・医療など、様々な分野で郷土長岡に貢献した。

 広井 一は、慶応元(1868)年9月11日広井十三とこま子の長男として古志郡小栗山村に生まれた。父十三は古志郡中潟村の塚越忠三郎の次男で、16歳の時に広井家へ入婿した。広井家の創業は明らかでないが、地元の旧家であったようである。家運が衰微することもあったが、文政8年に亡くなった重兵衛と安政6年に亡くなった重治郎の父子が家運を興隆し、広井家の中興と言われた。父十三も農事に励み、地租改正や学校の世話役・衛生係の職務に専念した。

 広井は子供の頃から、謹厳な十三のもとで教育を受けた。7歳から「消息往来」・「庭訓往来」・「実語教」・「童児教」を学び、9歳から十三の実家塚越家で行儀見習いと儒学の勉強を受け、きびしさのために実家に逃げ帰ったこともあった。その後虫亀校で学び、明治9年には虫亀校の優等生として各学校の合同試験を受験している。広井が教育で大きな影響を受けたのが、12年入学の長岡学校であった。長岡学校は9年12月廃校になった長岡洋学校の後を受けて設立された学校で、英語・国漢・数学を正規の学科とし、この他に学生の親睦組織和同会で演説・討論・作文を学んだ。特に影響を受けた教師が土佐の立志社でも教えたことのある城泉太郎であった。後年、広井は城について、「英書の講義を始めらるヽ時は、その弁舌の爽快明晰は勿論、それに調子つけての講義だから、学生を恍惚たらしむと云ふてよろしかった。その後、慶應義塾や、東京専門学校にて、有名の先生方の英書の講義を聴講したが、城先生程にミルの代議政体論、ギゾウの文明史などを流暢に講義する人はなかった」と記している。また城は和同会でもフランス革命史やロシア虚無党の一節を講演し、さらに「十三・四年の頃『私擬憲法草案』と云ふ慶應義塾同人間の起草になる憲法草案の写本を持参し、生徒に之を研究討論せしめた程の突飛な教育家だった」。

 広井が、自由民権運動に接したのもこの長岡学校であった。長岡は自由民権運動が盛んな土地ではなかったが、広井は城の感化を受け、さらに明治14年には「越佐毎日新聞」主筆草間時福の演説会に出席したりした。15年4月板垣退助が岐阜で相原尚ふみに襲われると、広井はすぐに見舞い状を送った。広井のグループは「越後長岡小児自由党」とか「北越青年自由党」と呼ばれ、広井の他に長岡学校同窓の広川広四郎川上淳一郎・長束彦三郎が加わっていた。5月5日、川上と長束が連名で「北辰自由党」本部に、「吾ガ北越新潟ニ於テ北辰自由党設立ノ義挙アリ
ト、嗚呼時ナル哉、時ナル哉、夫レ新潟ノ地タルヤ北海ニ面シ信川ヲ帯ブ、自由民権ノ風波豈ニ一時ニ勃興セシニ非ザルヲ得ンヤ」と書き送り激励した。9月長岡で開かれた自由大懇親会に、長岡学校から広川・坂詰四一郎とともに参加した。翌10月、広井は慶應義塾に入学するため、川上とともに上京した。

 慶應義塾からすぐに東京専門学校に転校した広井は、明治18年6月卒業し長岡に帰郷した。帰郷後、広井は中越地域の条約改正運動を推進した。20年10月1日と13日の会合で、建白書の作成・元老院へ提出が決定し、11月7日長岡撃石館の中越有志大会で建白書の可決、捧呈委員に広井が選ばれた。11月13日の着京後、県内外の自由党系活動家・後藤象二郎・大隈重信・前島密・母校東京専門学校の関係者を訪問し、情報収集に勉めた。改進党系の活動家が少ない中で、広井は自由党にも改進党にも偏することなく、建白の主意貫徹のために働いた。建白書
は、21日提出された。12月26日、芝田村町八番地の紅花亭に下宿していた広井は、警官2名突然の訪問で東京より1年間の退去を命ぜられる。有名な「保安条例」の公布であった。

 明治20年代以降は改進党系の活動家として活躍する一方、地元の銀行・病院・新聞・教育・鉄道に尽力した。昭和9年1月17日、69歳で逝去した。死因は、63歳の時から患っていた脳溢血であった。

 *主要参考文献 箕輪義門『広井 一伝』北越新報社、新潟県立長岡明徳高校
  『長岡学校と青年民権運動』第1集

   

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