か とう かつ や 加 藤 勝 弥 (1854年1月5日〜1921年11月5日) |
自由民権運動の中心人物として活躍する一方、キリスト教に入信しキリスト教信者としてその生涯を終えた。キリスト教に入信した県内の民権家は、加藤勝弥の他に高田藩士族であった森山信一の2人だけである。 加藤勝弥は、安政元(1854)年1月5日加藤雄次郎と俊子の長男として、岩船郡板屋沢村に生まれた加藤家は大庄屋を務めた家柄で、清酒の醸造も営んでいた。 勝弥の生涯を決定づけたのは、自由民権運動とキリスト教であった。民権運動に関わるようになったのは、明治13(1880)年1月千葉の自由民権家桜井静から国会開設懇望協議案・出会規則・同盟懇望案を送られてからであった。勝弥は国会開設請願を「傍観軽止スベキ儀」でない問題と考え、直ちに行動に移した。13年4月「国会開設懇望協議会」に参加して以降、「越佐共致会」・「北辰自由党」等で中心になって運動を支えた。弾圧が強まる中、長岡で開かれた15年9月の三大自由建白集会では会主の1人として名前を連ね、演説を行った。またこの時の建白書の署名簿には、勝弥の他に母俊子と弟の広吉も署名していた。 勝弥と地域の人々との繋がりを示すエピソードとして、15年2月頃勝弥が「負債のために、貴重なる権利を幾分か自棄する」貧民のために、自らの貸金証書を負債者に返還した話が伝えられている。この時の負債金額は、五千円にのぼっていた。このように地域の人々との深い繋がりの中で、勝弥は地元の民権運動にも力を注いだ。14年4月に、勝弥は村上町の経王寺で知識交換のための親睦会を開催した。また出身村の板屋沢村で学校設立を契機に、勝弥は地元の青年達と夜学や演説討論会を開催した。翌15年3月の葡萄山懇親会では「僧侶に托鉢を許すの利害」・「博打ヲ許すの利害」・「小学校に地方税を以て補助するの可否」の題で討論し、演説が行われた。演説で喝采を博したのが14歳の東熊吉の「団結論」と勝弥の母俊子の「女子教育の盛大ならざるは男子の罪」であった。このような運動の盛り上がりの中で、岩船郡の政党結成が具体的に進んだ。葡萄山北自由党が結成されたのは、15年10月であった。 自由民権家加藤勝弥が、キリスト教に接したのは自由民権運動の盛り上がりの中であった。明治16年3月「高田事件」で逮捕された勝弥は、5ヶ月間に及んだ拘留中に母俊子が差し入れた聖書を読むようになった。この時、勝弥はキリスト教に目覚めることになる。俊子が聖書で好んで読んだ箇所は、「義(ただ)しき事の為に責めらるる者は、福(さいわい)なり。天国は、其人の有(もの)なれば也」であった。翌17年5月、勝弥は村上の教会で俊子・妻久子とともに宣教師デビスから受洗した。以後明治10年代後半東京の数寄屋橋教会・市ヶ谷教会設立、20年キリスト教系学校「北越学館」設立、32年からの村上教会運営と一貫してキリスト教信者として生きた。 明治22年、勝弥は民権家松村文次郎とともに、通常県会に「娼妓及貸座敷営業廃止の建議」を提出した。この時は反対が過半数を占めたため否決されたが、24年270余名の署名を集めて、再び廃娼の建議を提出している。民権家で廃娼問題に積極的に関わったのは、勝弥が唯一である。 後年は村上に戻り、県会議員として教育・道路・鉄道・植林など地域の開発に奔走した。大正10(1921)4月9日、岩船郡猿沢村での国道開通式祝賀演説の途中、勝弥は脳溢血のため倒れた。その7ヶ月後、子ども達が歌う賛美歌のなか、68歳の生涯を閉じた。 ※主要参考文献 本井康博編『回想の加藤勝弥』キリスト新聞社 |