まつ むら ぶんじろう
松 村 文次郎 (1841年〜1913年9月23日) |
松村文次郎に可愛がれた地元の同志関矢儀八郎(剣野村)は、文次郎を「勝ち 気」で「品行方正」、「雅曲」を憎み「妓婦」と戯れたことがない人物と評した。真面目な性格からか、お金にだらしない県内民権家の中で、もっとも経済観念のある人物であった。 松村文次郎は、天保12(1841)年松村礼助の子として刈羽郡今町に生まれた。松村家は「大松村」と称し、文次郎の曾祖父にあたる季一郎の代に財をなしており、天保5(1834)年、「金持番付表」の東大関に名前を連ねていた。松村家の蓄財について確かなことはわからないが、おそらく米穀・縮布等の販売によって形成されたものと思われる。明治21(1888)年の地租額は、150円であった。 自由民権運動に関わるまでの文次郎の略歴を見ると、安政6(1859)年、高4人扶持・大庄屋格・御内用達となっている。慶応4(1868)年8月、町年寄として米10俵を官軍に供出している。戊辰戦争の時、松村家が官軍の病院となる。明治初年、柏崎県に出仕し地租改正に従事する。明治3(1870)年11月、柏崎学校の会計幹事の1人になる。明治6年10月、学区取締就任。明治11年9月の明治天皇北陸巡幸の際、柏崎行在所に奉仕する。明治12年県会議員に選ばれ、初代県会議長に就任した。県会の書記をしていた尾崎行雄は、後年文次郎の議長時代を振り返って、「議長の職には不なれで、しきりに失笑が起こる。私がみかねて議長に命令的に指図」したと述べている。 議長をしていた文次郎のもとに、千葉の桜井静から国会開設の呼びかけがあったのは明治12年 の県会開会中であった。翌13年1月3日の「新潟新聞」に文次郎は、桜井から送られてきた「国会開設認可懇請会ノ為ノ同義者同盟懇望案」・ 「大日本国会法認可ノ為メ懇請意見編集ノ草案」・「国会開設懇望協議ノ為メ出会規則」を紹介し、国会開設要求に対応するよう呼びかけた。文次郎自身は、第1回・2回の「国会開設懇望協議会」の参加や「国会開設建言書」に署名することはなかったが、地元で12年12月に「春風会」を結成し、村山鼎(南方町)とともに活動していた。13年7月10日、文次郎は、柏崎町西福寺で土屋哲三(古志郡長岡表三ノ町)・藤野友徳(古志郡石内村)を招いて、柏崎・刈羽地方最初の政談演説会を開いた。10月17日には柏崎町聞光寺で、国会開設請願の報告会が行われ、出納委員の選挙・拠出金徴収の方法・大会参加の旅費・日当の件が議決されている。 この春風会の活動の延長線上に、「刈羽郡自由党」の結成があった。明治15年5月、「刈羽郡自由改進党」が結成された。本部は柏崎町に置き、支部を各地に設け、本部長に松村文次郎・幹事に村山鼎と品川慎爾が就任した。この「刈羽郡自由改進党」が、翌6月に党の名称変更と規約の一部変更で生まれ変わったのが、「刈羽郡自由党」であった。同月、文次郎の名前で「刈羽郡自由党」は、当時全県を対象に組織された「北辰自由党」の傘下には入らず、直接東京の自由党に加盟した。なぜ、「刈羽郡自由党」は、「北辰自由党」の傘下に入らなかったのであろうか。このことは、15年5月31日に、文次郎が小柳卯三郎と山際七司に送った書簡から推測することができる。文次郎は、募金の集まりの悪さと地域の勝手な主張か ら、「北辰自由党」の指導性に疑問を持っていた。特に、文次郎は募金の立替えを個人的に178円ほど行っており、この立替金がまったく返金されない状況にいらだっていた。「北辰自由党」運営の失敗を小柳と山際に求めた文次郎は、個人的には「北辰自由党」を支えていく1人であったが、「刈羽郡自由党」の立場からすれば、指導性に問題の残る「北辰自由党」と一線を画す必要があった。文次郎の書簡の末尾は、もし小柳と山際が私の意見を聞かないならば、「亦別ニ図ルアラント ス」と結ばれていた。翌6月19日にも、文次郎は自らの立替金をめぐって、山際を「圧制」を好む人物と批判している。この7日後の26日、文次郎は小柳に「刈羽郡自由党」が「北辰自由党」の傘下に入らないことを宣言した。 明治16年4月、「北辰自由党」定期大会で、「北辰自由党」解党と自由党本部への合同が決まった。この解党論の中心人物の1人になっていたのが、「刈羽自由党」を自由党本部に直属させていた文次郎であった。3月には「高田事件」が起き弾圧が強まっており、県内の自由党を1つにまとめ勢力を維持する必要があった。文次郎は、5月「蒲原岩船魚沼ノ自由党諸君ニ報ス」を配布し、県内各地域の自由党に対し、東京自由党への合同を促した。文次郎が合同を主張した直接の理由は、出京委員の選出・県内の団結強化・分担金の拠出にあった。分担金の拠出とは、自由党本部の財政事情を好転させるために計画された10万円募金のことで、新潟はこのうち1万円を拠出することになっていた。しかし各郡の募金は思うように集まらず、文次郎の刈羽郡と北蒲原郡だけが積極的に募金活動を行っているだけであった。刈羽郡は、党員70余名で800円の募金を実現しており、文次郎自らも100円を出していた。16年以降、文次郎は口先だけの「書生論」でなく、実際の行動で低迷する民権運動を支えようとしていた。16年11月文次郎は、山際に「書生論半分実際半分」を調合した人物になってくれと注文をつけたが、これは文次郎自身ががめざした理想の人物でもあった。 明治23年7月の第1回衆議院選挙に当選した文次郎は、活動の拠点を東京に移した。翌24年5月、文次郎は若き活動家山添武治に、新団体を組織する時の注意事項として、5点を書き送った。第1、公務を優先し、私用は後回しにすること。第2、言論には責任を持つこと。第3、集会は華美に走らず素朴を旨とすること。第4、集会時間は守ること。第5、言論は必ず実践を伴うこと。これらすべて文次郎が、自由民権運動で気を付けたことであった。 大正2(1913)9月28日、家産を傾けた文次郎は東京で不遇の内に亡くなっ た。今柏崎で、文次郎を偲べるものは、菩提寺西光寺にある「松村翁之碑」だけである。 *主要参考文献 西巻達一郎「松村家のこと―松村文次郎を主にして」(『柏 崎・刈羽』第3号)、『柏崎市史』下巻、『黒埼町史』自由民権編 |