か   とう   とし  こ 
加  藤  俊  子
(1838年12月1日〜1899年6月27日)
                      
 
 
    

 「北辰自由党」に入党した唯一の女性民権家。自由民権家加藤勝弥の母。母として勝弥の活動を支援する一方で、自らも自由民権運動に関わった。女子で民権運動に参加したのは、県内では俊子と吉田ハマ(北蒲原郡)、西巻開耶(柏崎)の3人だけである。後年は、キリスト教信者として生き、キリスト教系の学校の経営にも従事した。

 加藤俊子は、天保9(1838)年12月1日新潟町白井伊左衛門の娘として生まれた。俊子が、加藤家に嫁いだのは、嘉永5(1852)年4月21日、満14の歳の時であった。

 加藤家を運命づける大事件は、俊子の夫雄次郎が明治元(1868)年3月35歳の若さで亡くなったことである。以後、俊子が加藤家の大黒柱として家を取り纏めた。勝弥も12年県会議員に当選し、翌13年には自由民権運動に参加し、家を空けがちであった。この間俊子は、後方支援の立場で勝弥を支えた。さらに民権運動の盛り上がりの中で、自らも民権運動に関わるようになった。15年2月22日岩船郡板屋沢村で開かれた葡萄山懇親会に弁士として出席し、「女子教育の盛大ならざるは男子の罪」という演題で演説した。女子の地位が非常に低かった時代に、演題が与えるインパクトは大きいものがあった。当日の聴衆は120余名、この時俊子は44歳を迎えていた。さらにこの年の4月に結成された「北辰自由党」に「加藤登志」の名前で勝弥・弘吉の息子とともに入党し、9月、集会・言論・出版の自由を求めた三大自由建白に署名した。

 俊子が、キリスト教に入信したのは息子広吉(勝弥の弟)が新潟町のパーム病院に入院した明治14年頃支那訳の聖書を貰い、これを目にしてからであった。当初は拾い読み程度だった聖書も、広吉の見舞いで訪れた病院内でのパームの説教を聞き、俊子の心は急速にキリスト教に傾いていった。この頃俊子が、聖書で好んで読んだ言葉は「義(ただ)しき事の為に責めらるる者は、福(さいわい)なり。天国は、其の人の有(もの)なれば也」であった。16年3月、勝弥が「高田事件」で拘留された際俊子は聖書を勝弥に差し入れており、これが勝弥の受洗に繋がった。俊子が正式に受洗するのは、17年5月宣教師デビスからであった。

 17年の夏、加藤家は東京に移転し、俊子のキリスト教への思いはさらに強まった。築地の女子伝道学校で3年間学んだ俊子は、22年春「精神ありて資金乏しき女子」の「独立自修の途」をつくるために麹町上二番町に独立女子学校を設立した。翌23年新宿角筈村に新校舎を建設し、兼ねてから念願であった女子教育のために一身を捧げた。26年6月には5ヶ月間アメリカ旅行を行い、安息日厳守の美風・慈善事業・伝道精神・クリスチャンホームの倹約質素に俊子は感動した。

 32年、重病になった俊子はあらゆる治療の効なく、勝弥等家族の見守る中6月27日61歳の生涯を閉じた。辞世の句は、「しろたへの袖ふりはえて吾神の広き御庭に往くぞうれしき」であった。俊子の亡き後、勝弥は市ヶ谷の住居を売り払い村上に移住した。勝弥が晩年地域のために尽力したのは、俊子の遺言であったと言われている。


 ※主要参考文献 本井康博編『回想の加藤勝弥』キリスト新聞社、『黒埼町史』
   自由民権編

   

自由民権家人名索引

越佐自由民権マップ