くわ  ばら   しげ   まさ
 桑  原  重  正
(1857年7月26日〜1930年3月31日
                       

     


 信念の自由民権家、自らの主張の前に県も政府も、そしてかつての同志でさえも敵にまわした。後半生を秋山郷に捧げ、村民から「重正どん」と慕われた。

 桑原重正は、安政4(1857)年7月26日桑原徳十郎の長男として中魚沼郡秋成本村に生まれた。桑原家は屋号を「大阪屋」と言い、雑貨商を営んでいた。

 少年期から重正は、猛烈に勉強した。慶応2(1866)年の10歳から明治5(1872)の16歳までの7年間、重正は中魚沼郡中深見村竜源寺の「赤山義塾」で学んだ。「赤山義塾」は長岡藩士であった長沢慎五郎が安政3(1856)年に開いた塾で、長沢は陽明学を教えていた。漢学だけでなく、重正は明治8年東京小石川の有斐学舎で英学を学んでい
る。また9年から13年まで高田藩でも教えた儒学者中村春作(中頸城郡米山寺村)に就き、漢学を修行した。当時中村は「秋成校」の「上等授業生」(校長)をしており、この「秋成校」で、中村を中心に若い教師の交流の場がつくられた。重正が、県下の中心的民権家鈴木昌司の弟貞司と知り合ったのもこの頃である。貞司は「下等授業生」として秋成校に勤務し、重正と天下の時勢を論じ、古今の英雄について語り、読書・詩文を競い、隣村の境まで月を見に行った後朝方まで勉強した。この他秋成校には、江村正綱(中頸城郡荒戸河沢村)や板倉辰一郎等の若い民権家も教師として赴任していた。

 明治13年4月の「国会開設懇望協議会」には参加しなかった重正であるが、11月には「中魚沼協同会」を結成し演説会を開催した。会には宮野原村の島田茂を始めとする中魚沼郡の有力者と学校の教師が入会した。毎月第3土曜日に演説会を開いた。また諸府県の新聞紙18種と多くの書籍を自費で購入し、休暇日に自宅で村民に読み聞かせた。県内の民権運動にも積極的に取り組み、馬場辰猪(高知県)等が14年8月に遊説に来た際には、随行者として県内をまわり演説を行った。15年10月の竹内正志(岡山県)等の遊説の時には、佐渡・新潟・村上・新発田まで足を延ばしている。

 重正は、県会でも自由民権家として活動した。16年2月の臨時会で、重正は政府が出した68号布告に猛烈に反対した。第68号布告とは今まで通常会・臨時会の会期日数が定められていなかったのに対し、今後は通常会30日・臨時会7日とする内容の布告であった。これに対し、重正は議事の内容を充分審議することが選挙民から任された議員の仕事であり、一つの布告で議会を制限することが過ちであると主張した。重正が提出した第68号反対の建議に山際七司・鈴木昌司も先頭をきって賛同したが、結局賛成者10名で否決された。しかし、重正は納得しなかった。翌3月、重正は落成した県会議事堂の祝詞で「我政府ハ客歳第六十八号布告ヲ以大ニ府県会ノ議権ヲ減縮セラル、嗚呼議会ノ困難果シテ如何ソヤ、不肖重正思ヒノ一ヒ此ニ至ル毎ニ未ダ嘗テ潜然涙下ラズンバアラス」と訴えた。政府批判を行う異例の祝詞であった。

 明治27年3月、第3回衆議院総選挙が行われた。重正の選挙区第7区からは、県下自由民権運動の中心人物島田茂が立候補した。結果は、248票差で島田が落選した。落選の原因として、重正が改進党と通じて運動したためと言われてきた。なぜ重正は、島田を支援しなかったのだろうか。重正は、明治20年代に入り自由党系の運動を一線を画すようになっていた。既に明治22年3月、重正は越佐議政会(改進党系)に接近しようとしていた。25年には自由党系の稲岡嘉七郎と堀川信一郎が道路問題で収賄の嫌疑を受ける「稲堀事件」が起き、自由党勢力は信頼を失い凋落していく。さらに第7区の選挙区は、第1回衆議院総選挙から自由党系の候補者が当選したことがない改進党が強い選挙区であった。重正は自由党にこだわっていなかった。広く民党勢力を構成
し、政府と対決しようとしていた。自由党にこだわった島田茂、こだわらなかった
重正、ここに2人の対立があった。この後、重正は自由党を離党し改進党に入党していくことになる。


 明治35年衆議院議員に当選した重正であったが、秋成村の村民にとっては村長「重正どん」であった。それは、重正が村長を明治24年から昭和5年まで40年間勤めたためである。この間に多くのエピソードを、重正は残した。重正の村への貢献と言え
ば、
杉の植林を挙げることができる。明治42年から大正7年にかけて、杉の苗木を村費で購入し、部落共有林に1戸5反歩づつ植樹を行い、合計160町歩の植林を実施した。この時も多くのエピソードを残しているが、その1つに突然杉の視察に訪れた重正のために御馳走の用意を始めた村人に、重正は「わしは山見に来たので御馳走たべに来たのじゃないから御馳走の仕度はやめろ。弁当も持ってきたから何もいらん。山へゆくには羽織はいらぬ。山着物に着がえて道具を持ってこい。刃物には砥石を忘れるな」と号令したと言われている。重正没後、この杉の売上金が村の道路・学校・電灯・水道などに有効に利用されたと言われている。

 昭和5(1930)年3月31日、家族の見守るなか桑原重正は大往生を遂げた。享年72歳、葬儀は村葬で行われ、参列者は千余名を数えた。後年(明治42年)の重正が忌み嫌ったものは、1に朝寝、2に懶惰、3に美食、4に座談、5に虚飾、6に芸娼妓、
7に狡猾利己、8に人参・砂糖・菓子・粥、9に酒乱であった。

 *主要参考文献 山名正平「辺境の民権論者(2)―桑原重正」(『地方史新潟』第12
  号)、『評伝自由民権の先駆桑原重正そのうるわしき生涯』秋成部落桑原重正翁顕
  彰碑建設委員会、『津南町史』通史編下巻・資料編下巻


  

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