しま    だ    しげる
  島  田   茂
       (1833年〜1906年3月7日)        
                        

 

    

 新潟の中心的な自由民権家の中で、最高齢の民権家。明治13(1880)年の「国会開設懇望協議会」に参加した時、48歳を迎えていた。国会開設建白書の元老院への提出、県会議長就任など華々しい活躍をしながら、遂に国会議員になることはなかった。

 島田茂は、天保4(1833)年鈴木長民の子として中魚沼郡宮之原村に生まれた。島田家は庄屋を勤めた家柄で、茂も「六郎左衛門」と名のり幕末維新期に庄屋を勤めている。

 茂の生涯の中で、幕末維新期の「品替反対運動」の経験は大きかった。縮・白布などの7品運上請負制は、近世中期から魚沼郡・松之山郷・刈羽三島両郡の一部で行われた雑税制度であった。元治元(1864)年、勘定所は十日町村・堀之内村・小千谷町の請負人が願い出ていた白布・小白布・続布を、生糸・紬・絹縮に品替することを認めた。これを契機に、「品替反対運動」が起きることになる。反対運動の要求は、請負人忌避・品替撤回の2点にあった。慶応元(1865)年、出府総代の1人に選ばれた茂は評定所で請負人宮庄九郎との対決し、その後の小千谷役所への嘆願などねばり強く運動を展開した。運動の先頭に立った豪農は、領分を越えた広範囲な地域で情報を集め、地域・領分ごとに運動を組織し、領主へ強い働きかけを行った。民権家桜井長左右(北魚沼郡池平村)も、この運動に深く関わった1人であった。結局品替は、慶応3年、請負人が品替の請負を放棄し失敗することになる。この時、茂は31歳の働き盛りであった。

 明治13(1880)年4月の「国会開設懇望協議会」を欠席した茂であったが、茂も国会開設に対し強い気持ちを持っていた。2月病中にあった茂は山際七司に対
し、さまざまな視点から国会を検討しなければならないとしながら、3月の常県会の時に新潟に集まり、方法を決め基礎を強固にしなければならないとしていた。5月の第2回協議会に出席した茂は、出京委員に選ばれた。7月、茂は七司とともに「国会開設建言書」と署名簿を元老院に提出した。「国会開設建言書」が受理されなかったため、茂は第2回の国会開設請願運動を組織していく。

 請願運動の一方、病中にも拘わらず茂は憲法草案の作成に取り組んだ。しかし病状が悪化したため、憲法草案の起草を断念せざるをえなかった。15年4月の「北辰自由党」結成では、理事委員の1人に選ばれた。この時理事委員に選ばれた他の2人は山際と鈴木昌司で、新潟を代表する民権家であった。16年3月、「高田事件」が起きた。この時茂は県会議長に就任していたが、拘留されていた鈴木昌司・堀川信一郎・江村正英の3名の県会議員を県会に出席させる要求をしている。県令宛に出された請求文の中で、茂は3名の県議を選んだ選挙民の権利擁護と不完全な県会を防ぐために請求したと述べた。

 茂の自由民権家としての毅然とした態度は、14年6月の県会にも見ることができる。この時参議山県有朋が東北巡視の途中新潟に寄り、県会を視察した。特別席に着いた山県は、議事半ばにして席を立とうとした。その時茂は議長山口権三郎に対し、「新潟県会には傍聴人規則がある。それには議員の退場前に場外に出ることを禁じている。内務卿と雖も、傍聴人である以上は規定を重んじて退場させてはなりませんぞ」と言い放った。このエピソードは、権力におもねることのなかった茂の政治姿勢を示しているといえよう。

 明治23年7月の第1回衆議院議員選挙に、茂は第7区から立候補したが次点で落選した。25年2月の第2回総選挙では、僅か6票差で衆議院議員当選の資格を失った。第7区は北魚沼郡・南魚沼郡・中魚沼郡・東頸城郡で構成されていたが、改進党が強い選挙区であった。過去2回の衆議院選挙も、改進党の候補者が議席を独占していた。27年3月の第3回総選挙では、かつての同志桑原重正を敵にまわして選挙活動を行ったが、またもや落選した。既に自由党の勢力は低下し、茂が当選できる可能性はなくなっていた。この時、茂の宿願であった国政参画の夢は消え去った。

 *主要参考文献 伊東祐之「越後魚沼における品替反対運動の構造と基盤」『国
  史談話会雑誌』第25号)、山名正平「辺境の民権論者(1)―島田茂」(『地
  方史新潟
』第11号)、『津南町史』通史編下巻)

   

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