にし  かた    ため  ぞう
 西  潟  為  蔵
 (1845年10月15日〜1924年9月7日)


 西潟為蔵は、地域の開発と国政に全力を傾けた自由民権家。30余年に及び村政・県政に尽力し、明治23(1890)年7月の衆議院議員当選以来、39年まで国政・県政の第一線で活躍した。

 為蔵は、南蒲原郡福岡新田西潟浅五郎の長男として、弘化2(1845)年10月15日に生まれた。西潟家の土地所有は、田5町・杉林18町であった。

 慶応2(1866)年、21歳の時に為蔵は、東山・東海・南海・山陽・畿内・北陸を旅して見聞を広めた。明治元年に起きた鹿峠・長沢両組38ヶ村の一揆で、為蔵は10ヶ条の請願書を起草したと言われている。請願書の第1条に大庄屋・役人の交代が記されており、為蔵は封建的身分制の矛盾を感じていた。当時一般農民は大庄屋の前で胡麻を摺り平身低頭しており、このことを為蔵は忌々しいことであったと後年回想していた。

 地租改正事業を推進した為蔵は、明治13年4月、「国会開設懇望協議会」に出席して自由民権運動を指導していくことになる。国会開設請願運動で、為蔵が集めた下田郷の署名者は99名を数えた。さらに計92円40銭の募金を集め、本部長小柳卯三郎に提出した。10月の第2回国会開設建白では、為蔵は今町新田の今泉富次郎と共に三条で送別の会を開き、「送別辞」を述べた。14年の越佐共致会・15年の北辰自由党と、南蒲原郡を代表して活動を続けた。17年10月の自由党大会で、自由党の解党が決定した。大会に参加した西潟等新潟の有志はこれに反対し、新潟からの抗議電報を示しその撤回を迫ったが、板垣は「代人ニテ党ヲ結ヒ、代人ニテ今之レヲ廃ス、不都合ナシ」として突っぱねた。

 自由民権運動を指導する一方で、為蔵は地元の下田郷と福島の会津を結ぶ八十里越道路を県道として開鑿し、新潟と福島の交流を盛んにしようとした。明治16年11月県会で八十里越道路の県道開鑿を建議した為蔵は、18年には会津に働きかけ、19年に3分の1の国庫補助を受けるため上京した。この為蔵の努力が実り、八十里越道路は22年着工、23年9月に完成した。総工費は、11万7銭余円かかる大工事であった。

 明治20年11月条約改正反対運動が県下で盛り上がるなか、為蔵は下越地方の条約改正反対建白書の捧呈員の一人として上京した。さらに翌21年2月、為蔵は伊藤博文総理大臣に辞職勧告書を送りつけた。辞職勧告書で、為蔵は条約改正に対する政府の姿勢やその対応のまずさを批判し、伊藤博文総理大臣の辞職を迫った。辞職勧告は為蔵の義憤から発した個人的な行動で、県の自由党勢力には関係ないものであっ
た。しかしこの挙動が政府の警戒心を呼んだのか、21年4月から翌22年2月まで獄に繋がれている。

 明治23年7月の第1回衆議院選挙で、為蔵は次点の立候補者に266票の大差をつけて当選した。25年2月の第2回衆議院選挙では、ライバルになる国権党の大竹貫一と争い93票差をつけ当選した。27年2月の第3回総選挙は勝算がないため辞退しようとしたが、第4区自由党員の体面で立候補し、大竹に425票差をつけられ完敗した。35年8月の衆議院選挙も、地元の支援グループの強い要請で立候補したが、当選することはなかった。しかし一貫して県政に大きな影響を与え続け、29年12月自由党新潟支部幹事、33年10月立憲政友会新潟支部創立委員を歴任した。

 明治39年7月31日、23年7月以来住み続けた東京市麹町区隼町5番地の借家を引き払い、国政から引退した。引退後も、44年に長沢村の村会議員就任、大正3年に財団法人新潟盲唖学校の理事となって地域社会に貢献した。

 昭和43年11月、政府による明治百年顕彰が大々的に行われる中、西潟為蔵は地元有志によって「西潟為蔵翁之碑」として生まれ変わった。

 ※参考文献  『雪月花―西潟為蔵回顧録』野島出版

 


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