お   やなぎ    う さぶ  ろう
 小  柳   卯 三 郎 
(1843年3月4日〜1917年9月4日)
                        
 
    

 県下の国会開設請願運動の実質的な責任者。新潟の代表的な自由民権家山際七司を支え、県下の運動をまとめ上げた。立教大学に所蔵されている「小柳卯三郎文
書」は、「山際七司文書」とともに県内の自由民権史料の中心になっており、その点数は6,696点に及んでいる。

 小柳卯三郎文書は、天保14(1843)年3月4日小柳清長とやすの長男として西蒲原郡東中村に生まれた。小柳家は700年の歴史があると言われているが、先祖ではっきりしているのが寛文13(1670)年3月に亡くなった小柳太七である。やすは、新津で石油を採掘した中野寛一の妹であった。卯三郎には三人の妹がおり、二女くまの子が漢学者小柳司氣太である。子供の頃の卯三郎は、「頭脳明晰で学を好んだ。暇さえあれば読書に励み、たまには気晴らしのため、前庭に出て独楽を回して遊んでいた。…何でも深く研究する性質であったから、独楽回しの技も大人顔負けの名人であったらしい」と伝えられている。13歳の時私塾長善館で漢学を学び、また長岡藩の某家で武家見習いもした。15歳の時家督を相続し、庄屋職を世襲した。小柳家の明治20(1887)年の地租額は、150円であった。

 明治13年、前年の千葉の自由民権家桜井静の呼びかけに応じ、新潟県の自由民権運動はスタートする。13年1月3日に山際七司は、卯三郎に「国会開設云々桜井静ヨリ迂生ヘ郵送セリ、故ニ之レヲ足下ニ呈ス、惟ンミルニ国会ハ目今ノ急務ニシテ忽諸スヘカラス、足下モ速ヤカニ同盟ノ回答アランコトヲ希望ス」と書き送り、国会開設請願運動を賛同を要請した。これに応えた卯三郎は西蒲原郡で「時習社」を結成し、山際と共に「国会開設懇望協議会」の準備を進めていく。4月6日から始まった第1回協議会は2日め欠席者が続出し、流会の危機を迎える。この危機を卯三郎は、「本会ハ最モ団結ヲ要スルモノ」、「本会ニ於テ議決」を主張し乗り切ることができた。第1回協議会の決議により、第2回協議会が5月6日から始まり、出京委員として山際と島田茂が決まった。そして出京委員を支える本部長に、卯三郎が選出された。6月24日、「国会開設建言書」を元老院に提出するため山際と島田が出京する。その前日の壮行会で、卯三郎は「国のため民のためなる真心の旅路ともへと(旅路と思えど)おしくもあるかな」と詠み2人を見送った。

 新潟で運動をまとめていた卯三郎は、山際の指示により第2回の請願運動を組織していく。13年9月の第1回弥彦会議・10月の第2回弥彦会議と回を重ね、「国会開設請願書」がまとめられ、出京委員に山際と渡辺腆が決まった。送別会が開かれ、第2回請願が行われようとした矢先、山際を批判する投書が「東京日々新聞」に掲載され、その出京が危ぶまれた。しかしこの時の危機も、卯三郎が切り抜けた。卯三郎の活動は地味であったが、大事な所でその本領を発揮した。その後も
15年の北辰自由党理事委員・三大自由建白起草委員を歴任した。明治20年代に入っても政治活動を持続し、22年「越佐同盟会」評議員、24年山際死去後の補欠選挙当選、25年第2回衆議院選挙では国権派の萩野左門を破って当選した。さらに26年自由党新潟支部結党、27年第4回衆議院選挙で再当選を果たしている。目立つ活動はなかったが、20年代も県政・国政の第一線で活躍した。

 晩年は、村政と治水に力を注ぎ、村政では村長時代に『小吉村誌―統計類纂付録経済調査摘要』をまとめ、治水では大河津分水工事、さらに42年に上郷水害予防組合を組織し組合長に選ばれ、「終始一貫、ヨク之ガ統制ト実行トニ努力シタ」と言われている。大正6(1917)年9月4日、享年75歳であった。

 *主要参考文献 『小柳正弘家文書目録』(立教大学図書館)、『近世之醇儒小
   柳司氣太』(西蒲原郡中之口村)

   

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