せき   や   ぎはちろう
 関  矢  儀八郎
(1858年10月〜1924年11月22日)
                           
 
 
    

 自由民権家の中で、唯一北洋漁業と沿海州の航路開拓に尽力した。採算を度外視して日露間の開発を夢見たところに、関矢儀八郎のスケールの大きさがあった。晩年まで沿海州に出漁したが、このことが原因で体を壊すことになり、66歳で帰らぬ人となった。

 関矢儀八郎は、安政5(1858)年10月、関矢福右衛門長男として刈羽郡剣野村に生まれた。明治4(1871)年に柏崎県立学校に入学し、句読を原修斎から学び、青柳剛斎から朱子学を学んだ。

 儀八郎には、教師・自由民権家・遠洋漁業家の3つ顔があった。教師としてのデビューは、明治7(1874)年、北魚沼郡田子屋村の小学校からで、この時17歳になろうとしていた。2年後の9年中魚沼郡岩沢村の小学校に移り、12年かつての恩師であった青柳剛斎の「菁莪学舎」に招かれ塾頭になった。この頃中頸城郡の青年民権家湯本乾三郎と江村正綱も「菁莪学舎」に籍を置いており、儀八郎との交流があったものと思われる。15年郷里に漢学の大家高橋茂一郎を招き、「上條義塾」を設立した。「上條義塾」は16年4月に儀八郎が「高田事件」で拘留されたた
め、閉鎖されてしまった。19年新潟に転居し、「北越学館」の漢学教師になっ
た。「北越学館」は、アメリカから帰国したばかりの内村鑑三が教頭をした学校でもあった。

 儀八郎が自由民権運動に関わるのは、史料から見る限り14年頃からであった。この年儀八郎は、西蒲原郡の青年民権家山添武治と同郷の猪股為治と九州を遊歴している。九州の民権運動の動向を知るための旅であったようだが、山添が儀八郎に金を借用しているところから、かなりの貧乏旅行だったようである。翌15年3月、刈羽郡上方村地蔵堂の演説会に出席した儀八郎は、5月に結成される「刈羽郡自由党」に入党することになる。9月、儀八郎は「三大自由建白」に署名し、11月に長岡会議の
刈羽郡委員に選ばれている。16年の「高田事件」では、儀八郎と赤井景韶は深い関係になかったようである。このことは、儀八郎の拘留期間が僅か6日間であったことから推測できる。17年9月には、「北陸七州大懇親会」に出席した。20年代以降も「自由党」・「立憲政友会」の立場から活動し、条約改正反対運動・「東北日報」記者・県会議員就任・「自由新報」創刊等に関わった。明治35年8月、儀八郎は念願の衆議院選挙に初当選した。

 明治20年代以降の政治活動の一方、儀八郎が死ぬまで心血を注いだのが北洋漁業であった。そのスタートは、明治10年代から北洋漁業を行っていた伏見半七への共鳴からであった。儀八郎は、沿海州の出漁や貿易を国家事業にするために、新潟・富山・石川の北陸3県が中心になって協議会を開くことを強く新潟県当局に要求した。しかし県当局の対応は、冷淡だった。県当局に絶好を宣言した儀八郎は、みずから漁船を買い取り「魁丸」と名付け、22年9月ウラジオストックに出航した。26年の伏見死去後は、儀八郎は自ら漁業家として遠くアラスカやカナダにまで出漁している。また儀八郎は、新潟―ウラジオストック航路の開拓にも力を注ぎ、第1・2議会に請願を行い議員に説明を行っている。儀八郎の考えは、ロシアより先に新潟―ウラジオストック航路を確保せよというものであった。ポーツマス講和条約後に設立された「露領沿海州水産組合」の新潟支部長として、13年間在職した。後年、儀八郎は北洋漁業について次のように語っている。

「金がもうかるもうからないは、自分の志とは関係がない。自分が30数年にわたって提唱してきた結果、北洋漁業の必要なことが新潟の人達に理解され、北洋に出漁する漁業者が年々ふえ、新潟県の一大産業となって隆盛を見ることができたのは自分のもっとも快事とするところである。自分は大成功者であると思っている」

 大正11(1922)年11月28日、柏崎西光寺で儀八郎の本葬儀が行われた。会葬者数百名の盛儀であった。その西光寺参道脇に、昭和3(1928)年に建立された「関矢君之碑」がある。

 *主要参考文献 杵淵武二「北洋漁業の先覚者関矢儀八郎」(『柏崎・刈羽』第
  2号)、『柏崎市史』下巻

   

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