ひろ  かわ    ひろ   し  ろう
 広  川  広 四 郎
(1864年9月13日〜1896年10月22日)
                           
 
 
    
 
 広井 一川上淳一郎とともに、長岡学校を拠点に自由民権運動に参加した青年民権家。後年、鉄道技師として鉄道建設に大活躍したが、明治29年33歳の若さで急死した。

 広川広四郎は、元治元(1864)年9月13日広川甚左衛門とちやの次男として三島郡飯塚村に生まれた。7歳の時に父を亡くし、それ以来母の手で育てられた。幼少期の有名な逸話として、小学校時代教師からサンフランシスコの話を聞いた広四郎はよっぽどアメリカに行きたかったのか、家に帰りすぐに母に百円の渡航費を請求したという。この時、母は広四郎に勉学に励んで優秀な人物になれば、百円は言うに及ばず五百円でも千円でも出すと答えたと言い伝えられている。

 明治11(1878)年6月、長岡学校に入学した広四郎は自由民権運動に接近し、多感な青年期を送ることになる。当時長岡学校では、教頭城泉太郎がミルの自由論やスペンサーの代議政体論を教えており、西欧の進んだ学問を間近に学ぶことができた。また14年には、和銅会(長岡学校内の演説組織)で交詢社の「私擬憲法
案」が討論の議題になったりした。広四郎自身も、北越新聞草間時福の演説会や馬場辰猪の演説会(14年 月に新潟を遊説)に出席したり、また「愛国新誌」を精読し「日誌」に重要な箇所を書き留めたりした。15年4月、板垣退助が岐阜で遭難すると、広四郎は川上等と相談し、見舞い状を送っている。

 15年3月長岡学校を卒業し、4月に私立築地大学校に入学し、翌年4月工部大学校入学、19年4月工科大学入学、22年7月工科大学大学院へ入学し、鉄道事業の研究に邁進した。22年8月から2年間九州鉄道の嘱託になり、研究の成果を実地に応用しようとした。25年7月鉄道庁の線路取調委員・26年11月逓信省鉄道技師・28年3月逓信技師を兼ね、「内ニ在テハ鉄道ニ関スル諸般ノ調査ニ従事シ外ニ出テヽハ線路ノ監査踏査、測量等ニ従事シ東奔西走虚日ナシ」であった。欧米の鉄道事業視察を控え、東京市街鉄道と中央停車場設置の計画、南和鉄道の監査に忙殺され体を壊したのか、29年10月19日突如発症し、22日帰らぬ人となった。享年33歳の若さであった。

 広四郎が、鉄道事業に関わるようになった動機はわからない。ただ広四郎が鉄道事業を研究し、実際に調査を行った明治20年代は産業や軍事上の要請から鉄道建設が盛んに行われる時期であった。青年民権家広川広四郎が、鉄道建設にどのような夢を託したのか。これから解明されなければならない大きな課題である。

 亡くなった翌年、兄幸四郎と友人達によって飯塚村を見下ろす枡形城跡に「広川学士之碑」が建てられた。

 *主要参考文献 「嗚呼工学士広川広四郎君」(『和銅会雑誌』第17号)、新潟  県立長岡明徳高校『長岡学校と青年民権運動』第1集
   

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