さくら  い   ちょう ぞう
 桜  井  長左右
(1841年3月20日〜1886年10月30日)


                             


 北魚沼地方の開化に全身全霊を傾けた自由民権家。無理を押して活動したため、明治19(1886)年10月30日46歳の若さで亡くなった。

 桜井長左右は、天保12(1841)年3月20日桜井長右衛門(先代)の子として北魚沼郡池平村に生まれた。桜井家は代々「長右衛門」を名のり、庄屋を勤めた家であったが、そのかたわら養蚕・米や蚕種紙の販売・酒造・金貸し・製糸など多角経営を行っていた。明治13(1880)年の桜井家の地価額は、4,032円である。

 幕末維新期、魚沼地方を中心とする地域で「品替反対運動」が起こった。長左右は中魚沼郡の中心的民権家島田茂(宮之原村)とともに、この運動の中心人物として深く関わっていく。白布・小白布・続布の運上品を、生糸・紬・絹縮に品替することで起こった反対運動は、領分を越えた広範囲な運動になった。このため長左右などの運動指導者は、情報の収集、地域・領分ごとの運動組織化、領主への働きかけを積極的に行い、運動を指導した。結局品替は、慶応3(1867)年、請負人が品替請負を放棄し失敗することになる

 明治5年、長左右は地租改正事務に携わり、以降地租改正事業に心血を注いだ。地券調査・収穫等級表作成・絵図作成、実地の測量、山地の等級検討、村の等級検討など、煩雑で村の利害が生じる問題に真正面からぶつかった。また県令を始めとする県との交渉も、臆することなく地域の立場から対決した。12年地租改正事業を終えた長左右は、これまでの地租改正事業を振り返り、「私は非常分外の力を尽くし、地租改正については自身の資産を傾けて長年これに従事し、率先して自分の無税地を先に洗い出したが、(私の)粉骨砕身を少しも人々が感懐なきは実に嘆かわしくと思う」と述べていた。しかし長左右は、地域の開化をあきらめてなかっ
た。地租改正事業に続けて、長左右は自分を選んでくれた人民に幸福を与えるために上京し、地方官会議を傍聴し、さらに「我同姓桜井静氏の国会開設の大美挙会に臨まんことを欲」していた。長左右にとって見れば、地租改正から自由民権運動への動きは当然の進むべき道であった。

 明治13年1月、千葉県の桜井静や山際七司が国会開設請願を呼びかける前に、長左右は地域の開化を押し進めていた。12年11月、長左右は地元の戸長と「同志会」を結成し、各人の自由と自治を確立しようとした。さらに県会終了後の12月25日、長左右は地元の戸長に、北魚沼郡の開化が達成されていないこと、この状況を挽回するためには戸長が中心になり、翌13年1月5日に集まり地域の利害得失を議論する必要があると訴えた。これが、「同志会」の第2回会合になった。このような地域の開化を求める動きがあったからこそ、桜井静や山際七司の国会開設請願の呼びかけをスムースに受け入れることができた。4月の第1回「国会開設懇望協議会」が開催されたとき北魚沼郡の国会開設署名者は27名であったが、その後58名に急増している。長左右を始め目黒徳松(須原村)・関矢橘太郎(並柳村)・酒井文吉(田尻村)の地元有志者の献身的な活動がこの結果をもたらした。

 明治15年以降、県内の民権運動に対する弾圧が強まっていく。4月に結成された「北辰自由党」は、9月集会・出版・言論の3自由を確固なものにするための集会を開催し、建白書を捧呈することに決定した。しかしこの頃から長左右は、自由党と一線を画するようになった。このことは、「北辰自由党」や「三大自由建白」に、長右左を始め北魚沼郡から誰も入党・署名していないことでもわかる。また
「高田事件」直後の16年4月、地元で長左右を支えた中沢万次郎(三ツ又新田)は、長左右に「国会開設の詔勅が下されたが、(長左右が)自由党に加入しなかったことについては親族始め私たちも安心しています」と書き送っていた。北魚沼郡の民権家にとって、国会開設イコール自由党ではなかった。もともと長左右が結成した「同志会」の第4条には、「自説を主張するも、決して法律・行政上に干渉しないこと」と書かれていた。また対象地域を拡大して結成された「一心会」でも、第4条に「政治に関する事項の論談・討論は許さない」と記されていた。戸長層を対象に組織された北魚沼郡の国会開設請願運動は、運動の急進化を恐れた。15年12月、穏健な「魚沼立憲改進党」が小千谷で結成された。結成式に長左右の名前はなかったが、長右左の同志目黒徳松は創立者の1人に加わっていた。

 明治24年7月、地元の有力者によって建てられた「桜井君之碑」の裏面には、
妻たかの次の2首の歌が刻まれていた。

  憐れとも思はば誘へ夜半の風
        彼の岸に見る人ぞ恋いしき
  咲初めて人の眺望もあきなんに
        なぞ夜嵐に散るぞうらめし

 *主要参考文献 『広神村史』下巻、伊東祐之「明治初年魚沼地方における蚕
  種・繭・生糸・紬生産と流通」(『新潟史学』第15号)、滝沢繁「国会開設運
  動と小出郷―桜井長左右を中心として」(『魚沼文化』20号)


   

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