や ぎ  はら しげとみ
 八 木 原 繁 祉
(1848年3月26日〜1901年4月14日)
               



 新潟を代表する士族民権家。自由民権運動の初期から明治20年代まで、一貫して第一線で政治活動を行った。

 八木原繁祉は、嘉永元(1848)年3月26日、高田藩士八木原九右衛門としけの間に生まれた。八木原家は、石高8石8斗2人扶持の下級士族であった。実弟には、高田事件で捕らわれる井上平三郎がいた。

 繁祉は、明治初年から旧高田藩内でグループをつくり盛んに活動していた。明治8(1876)年には「志士正党」を結成し、榊神社創建のグループと対立した。また士族反乱の一つである9年の萩の乱に、呼応しようとしていた。

 繁祉が自由民権運動に関わるようになったのは、明治10年結成の「明十社」からであった。「明十社」は小山宋四郎・鈴木昌司らが中頸城郡原之町で結成した結社で、県内最初の民権結社であった。その後11年9月の愛国社再興大会に参加した繁祉は、11年10月に新潟で自立社を結成している。繁祉は幹事として、坪井良策・村松藩士奥畑義平らと、雑誌の発行・演説会の開催を行った。13年11月の国会期成同盟大会に、繁祉は頸城郡の有志五十名総代として出席した。

 明治14年から15年から上越の民権運動は高揚し、急進的になっていった。14年10月、板垣退助の県内遊説が行われているなか、「国会開設の詔」が公布された。23年に国会を開設することを表明したこの詔勅に対し、繁祉は懐疑心を抱いていた。鈴木昌司に宛てた書翰には、「鳴呼明治十四年十月十二日ハ堂々タル我大日本帝国ハ亡滅ノ日也、二十三年云々ノ詔勅是レナリ」と記していた。15年10月には、繁祉等は高田郊外の金谷山で頸城自由党主催の一大示威運動会を行い、200余名の参加者を集めた。16年3月には北陸七州有志懇親会に繁祉は参加し、北陸地方との連携を深めようとした。

 明治20年から23年の条約改正反対運動・大同団結運動で、繁祉は東奔西走
し、高田にじっとしていることはなかった。わかっているだけでも20年6月大阪、21年7月山形・秋田・青森・岩手、同年9月富山・石川・福井、同年11月
長野
、同年12月大阪、22年6月千葉、同年8月神奈川・静岡、同年11月桐生・足利・大阪、23年2月関西、同年4月高松などに足を延ばし、遊説を行い情報を集めた。この間の22年5月に、「大同倶楽部」の仮常議員に選ばれている。

 明治23年7月の第1回衆議院選挙後、政党結成をめぐり諸派が対立した。繁祉は改進党と関係が深い九州連合同志会との連合を拒み、「日曜会」を結成し、「立憲自由党」に反発した。この時、長年政治活動を共にしてきた鈴木昌司と袂を分かつことになる。さらに繁祉は山際七司等の「国民自由党」に入党したため、上越地方は八木原派の「求友会」・鈴木派の「北辰自由党」・改進党に分裂した。

 明治34年4月4日、繁祉の病気を知ったかつての同志西潟為蔵は繁祉を見舞った。繁祉は、西潟の厚意を謝し感涙に咽んで別れを惜しんだ。面談後、西潟は「再起ノ期ナシ、末路憫然タリ」という思いで胸がいっぱいだった。その10日後、八木原繁祉は54歳の若さで波瀾の生涯を閉じた。

 *主要参考文献 『高田市史』第1巻、『黒埼町史』自由民権編


   

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