門閥世襲打破と実力本位の人物選出

鈴木昌司の人物評価表
(吉川町善長寺文書)



【解説】
 明治5(1872)年8月、県内11大区の大区長・副大区長が選出された。上越地域の第7区では大区長に笠原克太郎、副大区長に三上喜三が就任した。この人選について、鈴木昌司はきびしく批判した。特に、昌司は笠原の大区長就任を激しく攻撃した。昌司が批判した背景には、近世から「触元大肝煎」として地域に君臨してきた笠原家の存在があった。批判の要点は、克太郎は以前在職中に不正があったこと。さらに性格が傲慢で、民情に通じていないことを挙げている。昌司の脳裡には、多難なこの時期に、門閥世襲では地域の多様な問題を解決できないと考えていた。昌司の考えた大区長像は、「勧農商法について人心の怠惰を激励し、文明開化を率先して引っ張る能力」のある人物であった。さらに昌司は、詳細な人物評価表を作成していた。この表は、第7〜11大区の11名の大区長・副大区長を、7つの項目から12等級で評価したものである。この中から第7大区長の笠原と副大区長の三上、第10大区長の川上を取り上げて表にしたのが下表である。

                                    
人名    項目 才覚 読書 書記 人和 弁舌 粋然 因循
笠原克太郎 3級 級外
1級
5級 級外
5級
3級 2級 6級
三上喜三 5級 3級 5級 6級 5級 4級 3級
川上直本 1級 1級 1級 2級 1級 3級 級外
5級

 この表を見ると、川上直本が「才能・読書・書記・弁舌」で1級がつき、「因循」も級外5級であった。他の2人に較べると、川上は圧倒的に良い評価がつけられていた。川上は高田藩出身の士族で、側用人を勤めた人物であった。これに対し、笠原は「粋然」の2級が最高で、「読書」級外1級、「書記」5級、「人和」級外5級、「因循」6級である。昌司の笠原に対する評価は、きびしかった。

 人物評価表からわかることは、明治の初年の段階で、豪農が地域の代表者を選ぶのに門閥や私怨でなく、冷静かつ客観的に選ぼうとしていたことである。自由民権運動の源流には、こうした歴史があった。


八木原繁祉と「国会開設の勅諭」
八木原繁祉書簡NO1 明治14年10月(吉川町善長寺文書) 
八木原繁祉書簡NO2

八木原繁祉書簡NO3

【史料】

八木原繁祉書簡  明治14年10月(?)日付け不明


清野江村其余ヘモ紙面差出シ度候得共先是多事ニテ不得其意、因テ此手紙乍御手数諸君ヘ御廻シ之段是祈候
鳴呼明治十四年十月十二日ハ堂々タル我大日本帝国ハ亡滅ノ日也、二十三年云々ノ詔勅是レナリ、茲ニ至テ志士ノ鉄腸断シテ寸々トナル、定テ老兄御同感ナラント奉存候、嘸益々信ス自由党之結合ヨリ外手順無之、然ルニ当地ノ人気自学自大偏見ニ振ミテ、能ク人言ヲ容レ己レヲ屈シテ大ニ為スアルモノハ僅カ故ニ結合団結ノ盛ンナラサル所以実ニ御同歎之至ニ奉存候、劣弟慨然大息又天ヲ呼フ外ナシ、而テ思フニ彼ノ同盟会ノ如キハ過日差引等ニテ鳴鶴社ヨリ委員ヲ出サヽル事ニ決議ニ相成候得共、陸続報道ニヨレハ当年各県各地委員総代ヲ派出セサルノ処ナク、且蒲原郡ヨリ山際其他兼テ同盟者ノ外両三名モ差出シ候由、尤小柳卯三郎ヨリ周旋差出候由ニ有之、然ラハ図ラス当年ハ全国自由党団結ノ規模大ニ定ラント想像セリ、因テハ劣弟モ意ヲ決シ不日ニ出京之心得ニ存候、第一ニハ最早各地自由党結合ハ日ヲ追盛ニ属シ当地モ稍々結合ノ気合ニモ相成候ニ付(後欠)(吉川町 善長寺所蔵)



【解説】
 明治14(1881)年10月12日、明治政府は突如「国会開設の勅諭」を公布し、起死回生の挽回策に打って出た。この時政府は、自由民権派の国会開設請願運動によって包囲され、開拓使官有物払い下げ事件が表面化し危機的状況にあった。

 新潟の民権家は、この「国会開設の詔勅」をどのように受け止めたのであろうか。上に掲げた旧高田藩士族八木原繁祉の書簡は、そのことを明らかにしてくれる。八木原は、「国会開設の詔勅」が出された10月12日を「我大日本帝国ハ亡滅ノ日」と捉えていた。また八木原の弟井上平三郎も、「慨然大息又天ヲ呼フ外ナシ」であった。国会開設で政府に先を越された無念を、八木原と井上の言葉から見ることができる。八木原の10月22日付鈴木昌司宛ての書簡にも「彼ノ十二日之事件ニ付座口々ニ悲嘆ニ堪ユス、為メニ家族劣弟ヲ@ムルニ至ル」と記し、八木原家の悲嘆の大きさを知ることができる。

 八木原の進むべき道は、自由党結成しかなかった。鳴鶴社は国会期成同盟大会に不参加の方針を打ち出していたが、急遽井上が出京することになる。八木原は、これから公布される憲法が「命令憲法ニシテ府県会規則ニ毛ノ生タルモノニハ無之」(明治14年10月14日付八木原繁祉書簡)ことを心配し、また自由党の運動が「今ハ過激固ヨリ大事ヲナスニ足ラス」(前掲10月22日付八木原繁祉書簡)として、過激に走ることがないよう注意していた。

 しかし、官憲はこの八木原兄弟の行動を監視を怠らなかった。「国会開設の詔勅」から1年半後の明治16年3月20日、八木原が自宅で、翌21日井上が金沢で逮捕される「高田事件」が発生した。11月、井上の内乱陰謀容疑は免訴になった。しかし、八木原は上記の書簡と同内容の文面「明治十四年十月十二日ハ堂々タル我カ大日本帝国亡滅ノ日ナリ、他ニアラハ勅諭ノ一文ナリ」(明治14年10月18日付八木原繁祉書簡、原史料は未見)を友人小林福宗に書き送ったことが不敬に該当するという理由で、重禁錮2年に処せられた。1年半前の書簡を問題にする程、当時の官憲は「高田事件」の捏造に全勢力を傾けていた。


明治15年秋・赤井景韶の動向
写真A(表)
 今回新たに発見・公表された写真2枚には、高田事件の中心人物赤井景韶・井上平三郎・風間安太郎が写っている貴重な写真である。また貴重であるばかりでなく、高田事件を考える上で重要な史料になってくる。以下、この2枚の写真がどのような意義を持つものか考えてみよう。

 2枚の写真の1枚が、写真AとBである(なお、ここで紹介した写真は見やすさを考え、原版を複写したものである)。
写真A(裏)

明治十五年写

  赤井景
  風間安太郎
  今村致和
  加藤勝弥
  山際七司
  井上平三郎
  相羽嘉尚
写真B
向かって右から

  赤井景
  井上平三郎
  風間安太郎



高田事件裁判と赤井景韶
広井 一書簡の一部分
史料

広井 一書簡 広井十三宛 明治16年12月23日

(前略)九時ニ至リ開庭ス、赤井氏二人ノ押丁ニ連レラレ黒ノ紋付羽織ヲ着テ顔色少シク青色ヲ帯ビ徐々来ル、余リ自由ノ取扱ニテ縛スル事モナク
尋常ノ罪人トハ大ニ異ナリ自由ニ談話シ、弁護人武藤氏ト未来ノ事ヲ語リ肉体ノ快楽ハ今日限リナルカモ知ラザレトモ無形ノ快楽ハ依然受クルヲ得ベシナドヽ平気ニテ噺シタルヲ以テ、其初メハ殆ンド赤井氏ナルヲ知ラザリシ漸(暫カ)時ニシテ玉野(玉乃)大判事及ビ其他検察官・元老院議官等出テ来リ着席ス、赤井モ椅子ニ腰打チカケ前ニ土瓶ヲ置き自由ニ水ヲ喰(ママ)マシメ口供ノ時ハ立語ス、恰モ演説壇上ニ於テ述フルガ如シ、玉野ハ大老人ニシテ身体肥大田舎ノヲヤジノ如ク、其ノ言語ノ丁寧ナルコト筆紙ニ尽シ難シ、渡辺検察官小声ニテ無期流刑ヲ講求ス、赤井之ヲ駁シ弁護人進ミ出テ之ニ返答ス、而シテ顕ハレ出デタル一人ノ美男子其声音ノ朗清ナル其弁舌ノ快活ナル人ヲシテ魂ヲ飛バシムルカト疑ハシム、是レ此ノ人ハ堀田検察官ニシテ如何ニ武藤其弁ヲ揮フモ之ト伍スベキ者ニ非ズ、官海其人アルカト驚カズンバアラズ、弁論数会(ママ)十一時閉庭ス、此ノ時傍聴席ニ井上平三郎トテ連累者一人アリ、赤井ノ実弟某アリ、互ニ見合ハス顔ト顔、言フベキコト山海ノ高深ナルモ法庭ノ関ニ隔テラレ、仮令胸裡ニ愛情堆カクナルモ之ヲ云フベカラズ、涙眼中ニ満チテ余涙袂ヲ濡フスニ至リ漸(暫カ)時低視シ居リタルハ実ニ然ルベキナリ、我輩モ其状ヲ視テ涙ヲ催フス、況ンヤ其骨肉ニ於テヲヤ、況ンヤ二世ノ兄弟ニ於テヲヤ(後略)



【解説】

 高田事件で拘留された赤井景韶の高等法院での裁判は、明治16年12月11日東京で開廷した。裁判の模様については、当時の「新潟新聞」に掲載されている(『吉川町史』資料集第4集参照)。今回紹介する史料は、裁判中の赤井の様子を知ることができる貴重なものである。この史料は、長岡の青年民権家であった広井 一が父十三に宛てた書簡で、この時広井は、東京専門学校在学中の19歳の青年であった。

 書簡からわかることは、第1に中越地方出身の改進党系青年民権家が高田事件に興味を持ち、赤井に共感・同情していた点である。高田事件は官憲の謀略事件として知られているが、当時の民権家の中には官憲の違法性をこの事件から見ようとする気運がかなり強くあったのではないだろうか。第2に裁判中の赤井の態度や発言を見る限り、赤井自身に罪の意識は全然見られず、堂々と検察官とわたりあっていたことである。この後の脱獄は、赤井から気持ちからすれば当然の行為であったようである。第3は、赤井の同志井上や赤井の弟新村金十郎の「無念」の気持ちである。この「無念」は、高田事件で逮捕された者が中心になってつくられる「鉄窓会」に引き継がれていった。第4は、広井が堀田正忠検察官を高く評価していたことである。堀田は、福島・喜多方事件でも諭告した人物で、赤井に対しても「たとえ途中で中止しても、政府高官の暗殺を計画すれば内乱陰謀罪である」と述べたと言われている。

 裁判長玉乃に何か一言ないかと言われ、答えた赤井の堀田に対する言葉は「斯く理を以て論ずるも理に動かず、斯の如き検察官は猶電気に感応せざる物体に同じきのみ、嗚呼復た何をか言はむ」であった。赤井の主張は、法廷内では完全に孤立していた。





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