はぎ  の    さ  もん
 萩  野  左  門
(1851年8月1日〜1917年12月30日)
                           
 
 
    

 西蒲原郡を代表する自由民権家の一人。生まれ育った板井村は、山際七司出身村木場村の隣村であった。七司とは年齢が2歳しか違わなかったため、おそらく幼い頃から左門と七司はつき合いがあったものと思われる。明治20年代中頃は、国権党の中心人物として活動した。

 萩野左門は、嘉永4(1851)年8月1日萩野伝衛の長男として西蒲原郡板井村に生まれた。萩野家は天明元年(1781)年に弥彦から移住し庄屋を勤めた家柄で、伝衛で四代目であった。伝衛は明治5年の大河津分水騒動で一揆勢に殺されており、この時22歳の左門が五代目を継いだ。明治21(1888)年の萩野家地租額は、
49円であった。

 左門は、明治10年代の自由民権運動には積極的に関わっていない。しかし「新潟新聞」への左門の投書を見ると、左門の自由民権論を確認することができる。10年7月15日に「新潟新聞」に掲載された民選議院論で、左門は村民会・小区民会→府県民会→大日本帝国民選議院と順を追った漸進的な民選議院設立を主張していた。また12年9月28・30日の投書では、西蒲原郡の県会議員当選者4名のうち3名が辞退したことに対し、辞退者を批判してこのような「無気力卑屈」では民権は広がらず、参政権は得ることもできず、国会も望むことができないと言い切った。

 民選議院論や県会議員辞退者に対するきびしい批判に見られるように、左門は県会を重視した。左門が県会を重視したのは、近世の錯綜した支配からくる村々の対立を、県会を通して改善していこうという考えからであった。左門自身は12年6月の県会議員選挙で落選したものの、辞職に伴う補欠選挙で当選し念願の県政に参加することになる。左門が先ず手がけたことは、13年7月に結成された県会議員の親睦団体修睦社の結成である。「修睦社緒言」には封建割拠がいまだ残る中で、全県の利害を討論し、個人的なことも指摘し合える場が修睦社であると書かれていた。

 このような県会議員の親睦を目指す一方で、具体的な県政の課題として左門は、道路網と河川改修に取り組んだ。道路網改修は、左門によれば「当時交通ノ不便最モ甚シキ時代ナレハ道路ヲ開クト云フコトヲ根本方針」であった。この考えのもと西頸城郡親不知・松本に至る姫川流域・東蒲原郡津川・岩船郡葡萄峠の四境を踏査した。河川改修については、14年7月に黒鳥村の鷲尾政直とともに中ノ口川堤防改築を訴えた「治水起工議」をまとめ、以後協同盟約書・改築工事請願書の作成、村々のとりまとめ、県への請願に奔走した。このように明治10年代の左門の活動は、国政ではなく新潟県が抱えた現実の諸課題解決に向けられていたと言えよう

 明治20年代に入り、左門は積極的に国政に関わるようになった。特に保安条例後、東京を追放された県内の活動家に代わって、左門は政治の表舞台に登場することになる。21年7月から始まる後藤象二郎東北遊説・22年3月結成の越佐同盟会会計委員就任・23年11月提出の「国権拡張ノ請願」などに、左門は深く関わった。特に七司亡き後の24年以降、左門は国権党の結成に傾き、越佐同盟会内の対立を激化させた。左門は大竹貫一と組み「国家的自由派」を形成し、一方鈴木昌司小柳卯三郎は「個人的自由派」に属した。両派の対立は、24年7月の越佐同盟会総会で決定的になった。同盟会の主義・目的をめぐって両派の議論が紛糾し、結局多数決の結果「個人的自由派」が勝利した。破れた「国家的自由派」は越佐同盟会を脱退し、25年1月国権党を結成することになる。左門は、同年結成の西蒲原郡内地雑居講究会・28年結成の越佐会にも深く関わり、国権的な姿勢を堅持した。28年には、朝鮮の視察も行っていた。

 左門は、27年3月の第3回衆議院選挙で小柳卯三郎を敗って初当選した。以
後、31年栃木県知事・35年新潟市長歴任した。衆議院選挙も31年の第2回から37年の第5回総選挙まで連続して当選した。43年には山添武治とともに「新潟毎日新聞」創刊し、晩年まで県政に大きな影響を与え続けた。大正6(1917)年の暮れの押し迫った12月30日、67歳で逝去した。


 *主要参考文献 『黒埼町史』通史編・資料編3近代・自由民権編、『新潟市
  史』通史編3近代(上)

   

自由民権家人名索引

越佐自由民権マップ

戻る