ひろ   かわ  こう し ろう
 広  川  幸 四 郎
(1860年11月21日〜1903年3月31日)
                           
 
 
    

 三島郡飯塚村で、唯一明治13年(1880)年の国会開設連名簿に署名した自由民権家。進歩的な考え方の持ち主で、明治20年代に鉄道建設で活躍する弟広四郎にも大きな影響を与えた。

 広川幸四郎は、万延元(1860)年11月21日広川甚左衛門とちやの長男として三島郡飯塚村に生まれた。幸四郎8歳の明治元年、戊辰戦争が起きた。幸四郎は、この時の様子を祖母の背中越しから目撃した。会津藩兵百余人が、「松明ヲ焼キ刀剣ヲ輝シ駕篭ヨ持篭ヨト村民ヲ強迫」していた。父甚左衛門は、幸四郎が11歳の時に亡くなった。それ以降、幸四郎は母ちやを助け、4歳年下の弟広四郎の面倒をみた。明治4年6月、12歳で広川家を相続している。

 幸四郎が進歩的な考えの持ち主であったことは、12年12月に、現在の図書館の先駆けになる「書籍縦覧舎」の設立を計画していることでもわかる。この「書籍縦覧舎」は、加入者の蔵書を目録にし、目録を見て借覧できるようになっていた。借覧する場合は借覧料を納め、借覧料は書籍購入費に充てるようになっていた。また「書籍縦覧舎」で閲覧する場合は、舎員外の者も無料となった。非常に民主的な内容であり、貧しい者でも図書を閲覧することができた。

 13年に国会開設連名簿に署名した幸四郎は、14年に来新した高知の民権家馬場辰猪の演説会に出席した。幸四郎が出席した演説会は9月2日の長岡柳月座の演説会で、馬場以下5名が登壇して演説を行った。演説の内容は一様に明治政府を批判する過激な内容で、馬場も大蔵卿大隈重信や外務卿寺島宗則・井上馨の政策を手厳しく批判していた。15年4月、幸四郎は島田茂鈴木昌司小柳卯三郎に宛て、「自由主義の一大新聞を紙幅を以て大小云ふニ非ず、県下ニ起し以て越佐両県自由之泰斗たらしめ政談之木鐸たらしめバ、其政治思想を発揮する夫幾千ぞや」と訴えた。この時幸四郎は、村内では村会議員・村会議長の役職に就いていた。9月20日、北辰自由党が三大自由建白を行うために開いた自由大懇親会にも、幸四郎は参加した。

 幸四郎は、外国語の習得にも積極的であった。幸四郎は、「時間と資力ある青年ハ外国語をも学ひ置くべし、英語ハ世界之普通語なり、学者たらんとせバ独語・仏語、政治家たらんとせハ露語・清語、商業家たらんとせハ韓語・西語等夫々必要に応し学習すべし」と述べていた。23年市島謙吉・広井一等と演説会を開いた際、幸四郎は「北越青年宜しく露語を学ふべしと演説」した。弟広四郎が英語・仏語・独語を習得したのも、兄幸四郎の影響によるものと思われる。

  明治36年3月31日、病のため広川幸四郎は43歳の若さで亡くなった。現在は、病中に幸四郎が記した2冊の「病間漫筆反古裏書」からその思想の一端を知ることができるのみである。

 *主要参考文献 溝口敏麿「広川幸四郎の『書籍縦覧舎設立」(『こしじ町史編
  さんだより』第14号)、新潟県立長岡明徳高校『長岡学校と青年民権運動』第
  1集


   

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