せき   や   きつ  た  ろう
 関  矢  橘 太 郎
(1863年9月14日〜1912年4月11日)
                           
 
 
    

 北魚沼郡を代表する豪農民権家。桜井長左右・目黒徳松らと行動を共にし、北魚沼郡の改進党勢力を形成した。

 関矢橘太郎は、文久3(1863)年9月14日関矢孫左衛門の長男として北魚沼郡並柳新田に生まれた。関矢家は、宝暦年間(1750年代)より明治維新まで、松平日向守の領地13ヶ村の割元役を務め、代々苗字帯刀を許された旧家であった。父関矢孫左右衛門は、勤皇隊居之隊結成・西南戦争へ従軍・北海道殖民社の社長になるなど、地域名望家の枠を越えたスケールの大きい人物であった。

 橘太郎は幼児より漢書の素読を受け、明治6(1873)年から3年間は三島郡片貝で佐藤佐平次・丸山恭次郎に付いて漢文学を修行した。10年4月に、橘太郎は長岡学校に入学した。長岡学校は中越地方の中等教育機関として唯一の学校で、慶応義塾の藤野善蔵が洋学を中心にした教育を行っていた。藤野の後任は城泉太郎で、城は欧米の政治思想を原書で教える一方、生徒の演説・討論会である「和同会」でも演説を行い、生徒に多大な影響を与えた。川上淳一郎広川広四郎広井 一など、当時の生徒の中にも自由民権運動に接近していく者も現れた。12年に長岡学校に入学した広井は、橘太郎の印象を「関矢橘太郎君は私と同室で両君とも先輩長者で懇切に教導して呉れられた」(『長岡教育史料』)と語っている。

 明治13(1880)年1月、山際七司と小山宋四郎が国会開設請願運動を開始する
と、橘太郎は桜井を補佐し、目黒徳松・酒井文平などとただちに行動を開始した。桜井に宛てた1月28日付の書簡に、「今ヤ四国・九州・山陽・奥羽諸州ノ愛国士陸続登都シテ国会開設懇請スルニ当テ独リ我越州此有志ナキヲ歎ンズレハ有ラズ」と書き記していた。橘太郎らは精力的に活動し、広神村を中心に58名の国会開設同盟者を集めた。また、演説や新聞・雑誌の回覧を目的とする民権結社「一心会」も結成されることになる。

 橘太郎の名前が民権運動上に出てくるのは、明治13年の一時期だけであった。翌14年8月〜9月の馬場辰猪・佐伯剛平遊説や15年4月の「北辰自由党」、さらに同年9月の長岡自由懇親会に、橘太郎の名前を見ることができず関係しなかったようである。桜井も15年に入り「北辰自由党」の活動に消極的になり、また父孫左衛門は「魚沼立憲改進党」を結成していく。14年以降の橘太郎と民権運動の関係解明は、今後の課題になろう。

 民権運動との繋がりは見られなくなったが、橘太郎は村の経済・教育の仕事に関わり改革をしようとしていた。明治14年には冬期の副業を目的とする機織工場をつくり、15年には並柳小学校事務掛になり、16年には酒井と知識交換・学術錬磨を目的とする「益友会」を結成していた。また議員としては、22年の下条村村会議員を最初に、27年県会議員、41年衆議院議員に初当選している。この他、さまざまな役職に就任していた。

 大正元(1912)年4月11日、享年50歳で、橘太郎は亡くなった。地方名望家として、橘太郎はその重責を全うした。昭和7年に発行された『広瀬村誌』は、地方名望家としての橘太郎を次のように述べている。

  歴代慈善の家を継ぎ能く地方民を愛撫し、年凶荒に係るに於ては之が為毎日粥
  を用意し幾多窮民を救済せり

 並柳新田には、現在多数の古文書が保管されているが当時の遺構として残されている。

 *主要参考文献 『広瀬村誌』、滝沢繁「国会開設運動と小出郷」(『魚沼文
  化』第20号)


   

自由民権家人名索引

越佐自由民権マップ

戻る