はどそんのつぶやき2011

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4月某日 『長編小説 芥川龍之介』を読んでいる。
 作者の小島政二郎は芥川に師事し親しく接していた作家だそうだが、無学な私は存じ上げなかった。老齢になって書かれたこの小説のふりをした評論はおもしろかった。
 芥川は教養豊かで博学で「物語作家」としては優れていたが、生活を書かない、「私」をさらけださないので「小説家」ではない。それなのに普段着の文章を書く「小説家」志賀直哉を尊敬して、そうなろうとしたところに悲劇がある、と書いている。
なるほど、芥川の作品でおもしろかったのは「鼻」や「羅生門」など、今昔物語に材をとったものだ。後期の作品は私にはめんどうくさくおもしろくない。
 耳目を引くのは、芥川の自殺について、気の弱い養子であることが原因と喝破していることだ。
「僕の将来に対する唯ぼんやりした不安」で、と世に流布されている哲学的心理学的な見方をしていない。実母の精神異常の遺伝への恐れ、創作の行き詰まりの説を採らない。
養子として、養家へ逆らえない、文句を言えない下町気質のせいだという。家の中に争いごとを起こせない、家を飛び出せない気の弱さやさしさのせいだという。
会計は養父が管理し、家事の采配は叔母が管理し、妻との旅行も気兼ねし、親族の借金に難渋し・・・と気詰まりな日常であった。それが、不眠症とうつ病を深めていったと。心中を企てたこともあったが、恋愛で死を決したわけではないと小島は言っている。
なるほど、とガッテンしている私。

 自殺したR氏も養子だった。
生まれは大陸なのか東京なのか不明だが、上海事変で一家は中国から引き上げてきた。父親は銀行家だか銀行員だかだった。
内地に戻ってから、何の商売をしていたのかも不明だが、父親は商用で出かけるとき、子どもを連れて行くことがあった。まず長男。次男だったR氏もねだって連れて行ってもらった。しかし、その旅先の親類が子だくさんで貧窮していた一家をみかねて、その地の裕福な商人の家に、その子R氏を養子に出すよう勧め、父親はR氏をその町に残して帰った。父親が一人で帰京して、母親は驚いた。どんなに貧しくても子どもを手放そうなどとは思わなかったので、すぐさま連れ帰ろうとしたのだが、三男が、おたふくかぜで高熱を出し旅立てなかった。回復してからその町へ行っても返してもらえなかった。
 義父は、商人に学問はいらないといってR氏は商業学校へ行かされた。優秀な成績で卒業したが、R氏の実の兄弟は苦学しながらも、みな大学へ行っていたので、R氏は、のちにたいそう悔しがったそうだ。兄は貿易商になり小型飛行機の操縦が趣味だった、弟はのちに東京銀行のミラノ支店長になった。
義父は、はやく家督を譲って、悠々と楽隠居するのが夢だった。しかし、R氏が卒業する頃までに、家業は傾き、店をたたみ借家住まいをする身の上になっていた。相場に手を出したからとも言われている。
年金などのない時代であり、どんな親であっても子が養うのが常識の時代、義父母は今まで養育した子が自分たちを養うのが当然とゆるぎなく考えていた。
R氏は、継ぐべき家業がなくなってサラリーマンになっても、そのくびきから一生逃れられなかった。
 兵隊にとられることになると、急ぎ嫁を持たされた、養父母の世話をするためにだ。そして、「両親を頼みます」と嫁に言い残して、二等兵として出征していった。運良く生還はしたが、新妻は養父母の世話をする無給女中のような明け暮れだった。
 数年後、R氏は妻子を連れ、その町を離れ、東京の関連会社に再就職した。毎月、養父母に送金しなければならなかったので、貯金も保険も何もできなかった。給料が上がったときは、これで少しは楽になると喜んだ。しかし会社の職員のなかに田舎の養父母の知り合いがいて、その話は筒抜けになっていた。給料が上がっただろうから余計に送金してくれといわれたとき、R氏夫婦は、一生楽はできないのだと嘆いた。
 R氏は東京の丸の内に電車通勤する、いっけんおしゃれなサラリーマンであった。細身で眼鏡、山高帽に青い背広、ツートンカラーの革靴でビル街を通っていた。そして会社に恋人がいて、彼女と睡眠薬心中したことになっている。しかし、相手は本気で死ぬ気はなかった、それは、助かっていることからわかる。
R氏の嫁は、夫の自殺の気配を感じて、その睡眠薬をうばいとり自分が飲んでいる。当てつけなのか、愛情なのか不明だが、母としては子を捨てたことには間違いない。だが致死量に達しなかったこと、10才の子が医者を呼んで胃洗浄をさせたことで、助かっている。
R氏は、その上で決行しているのだから、恋愛のためではないのだ。養父母のしがらみ、家庭のしがらみがいやになって、厭世観に落ちていたとみるのが正解なのではないか。
しかも、田舎にいるときも、一度自殺未遂を起こしている。そのときのわけは嫁も知らない。実家の父親が聞いてくれなかったといっていたが、自分で聞こうとしないそういう時代なのか。
真相は誰もわからない。小島政二郎の『長編小説芥川龍之介』を読んで、そういうことだったのかなと推測してみているだけだ。



4月某日 英国ロイヤルウエディング
 テレビで堪能。綺麗で豪華で荘厳でしたね。美しく凛々しいケイトさん、いえキャサリン妃を観ていると、こちらも清々しくなりました。初々しいダイアナ妃の祝婚パレードを観ていたのも、つい昨日のような。
おとぎの国の王子様は気苦労で薄毛になられたけれど、そんなことはものともしないお姫様は幸せになってもらいたいですね。
大英帝国&英国国教会の大PRの日でもありました。費用は27億から100億とも言われていますが・・・。



4月某日 事故られる
 病院の母の見舞いに行こうと、高速道路のICに入るすぐ手前の広い二車線の道を走っていた。
引っ越した当初は、土埃の舞う空き地だったのが、両側に巨大なスーパーにドラッグショップ、産直市場と次々にできて、交通量が倍増した。そこへ入ろうとする車が中央車線にウインカーを出しながら止まっているわ、駐車場から出ようとする車は、直進もあり右折左折もいるわで、いつ事故が起こってもおかしくない緊張する一角になっていた。
 まさにその危惧があたって、駐車場から駐車場へと横断する車にぶつけられた。
右横から来る車にハッと気がついて加速したが逃げ切れず、鈍い音がした。降りてみると、後部の角とアルミホイールをけずられていた。
 警察を呼んで事故処理をしてもらった。双方にケガはないのであとは保険屋さんに、といってミニパトの警官は帰っていった。
 相手方は50代くらいの気のよさそうな女性。すみませんといい、ケータイで110番もちゃんとした。でも、やっぱり泡をくっていたのだろう、119番に二度もかけてしまっていた。(家に帰って、そういうときは被害者が電話するんだよ、と言われたけど、私にも、その機転はなかったから、泡を食っていたのだろう。)
 私は道路の左側を走っていた。中央車線には両方に右ウインカーを出している車が停まっていた。その人は警官に、「(中央車線にウインカーを出して)停まっている車がいたから(私の車が)見えなかった」と言うが、その道路にいる車の方に優先権があるのとちゃう?左車線を走ってくる車があるかもと、予測する義務もあるのとちゃう?
しかも、私に気がついて急ブレーキもかけていないし、そのまま駐車場に入って、それから事態に困って止めたのだ。なんだか、ボーッとした人だ。
 私は、もう病院へ行くのをやめて家に帰った。なぜだか足ががくがくするのだ。
番茶を飲んでいて気がついた。
数秒、この遭遇が遅ければまともに右顔面にぶつかってきたのだよね!定石通り急ブレーキを私がかけていれば、やはり・・・。

 ツレの乗っている会社の車は故障して修理工場だし、このツレの車も修理となると、ゴールデンウイークは車がない!?
そんなことは言ってないで、命あったのをめっけものとしよう。



4月某日 「よくなる!」
「よくなるよくなる
だんだんよくなる
どんどんよくなる
めちゃくちゃよくなる」
と、色紙に書いていたのは故・木原美智子。
NHKの「坂の上の雲」で広瀬中佐を演じている藤本隆宏は、この水泳界の大先輩のことばに励まされたという。(by ラジオ)
木原さんはポジティブで、というが、自分自身をも励ましていたんじゃないかな。そう思わなくっちゃあ前進できないじゃない。
でも、から元気でも、いいサ。この呪文、覚えておこう。



4月某日 カレーライス
「カレーライスが食べたいわねえ」と、また母が言う。
カレーなんぞ食べられない腹が弱い娘に、腹下ししたことのない心不全の母は言う。
食い意地のある人は死なないそうだ。

もう、ひとむかし前のことだが、祝いの席にカレーライスが出た、と母は怒っていたことがある。孫の進学祝いに招かれて行ったら、夕飯はカレーライスだった、それも出来合いの、ドロドロと汁ばかりのようなのだったと。
お祝いといったら新潟では鯛の尾頭付きを出すのに、カレーなんか出してと、ぐちっていた。(そこ、新潟じゃなくて東京なんですけど。私らのとき鯛の尾頭付きの祝いの席なんかなかったですけど。孫の好物だったかもですけど・・・といっても了解せずに。)
いま「あのカレーライスが食べたいわ、高級料理店のレトルトだったかもねえ、やわらかで美味しかったもの。ごちそうだったのかねえ」と言う。(たぶん、そうですよ)
歳をとって相手の気持ちになって反省するようになったか、それがわかるまで神様に生かされているかのか、と思いきや、これは、食い意地なだけだったようだ。



4月某日 今日のお言葉
「なんとかなる」  by中嶋朋子 
ラジオをつけると39才になった『北の国から』の蛍が絵本の朗読をしていました。「・・・けんちゃんはいいました、「なんとかなる!」・・・・」と。そして、今、地震後の人々に届ける言葉として、この言葉はいいですね、というようなことをアナウンサーに話していました。
そうですね、どうにもならないときでも、なんとかなる、と言っていると道は開けるかもしれません。
おかしかったのは、そのあとに話題に出したのが『だるまちゃんとてんぐちゃん』。
だるまちゃんは、てんぐちゃんのもっている「はうちわ」や「ぼうし」をうらやましがって、ほしがって、おとうさんにねだります。そのおとうさんはとんちんかんをする。でも考えているうちに、自分でいいことに気がつくのです。そして、「なんとかする」んです。



4月某日 われは草なり
きょうは、「伸びられぬ日」で「伸びぬなり」。
そういいながら、おなかにホッカイロを当てて日なたに出て、雑草を抜く。
 クサイも、メヒシバも、ヒメスイバのロゼットも、いつのまにか、苔の上に、はびこっていた。「伸びられるとき伸びんとす」していたのですね。



4月某日 私のせいですが
 夜、ツレがパジャマに着替える前に、フラノシャツの下に来ていた白い肌着をひっぱって「この肌着は、何の素材だ?ぴったりくっついておかしい」と言う。どれどれと裏についているシールをみる。綿94%ポリウレタン6%・・・・ユニクロS、
「あれー!、これ、わたしのTシャツ。」
どうりで、丸首。彼はいつもU首なのに。
「こんなところ(俺の肌着置き場)に置かないでください!」
「すみませ〜ん、ごめんなさーい」でも、
あはは〜と、笑わずにはいられませんでした。さぞかし、一日中ぴったりだったでしょうねえ
(気がついてよ〜着るときに)
 この話、Kさんとも大笑い。
だってね。Kさんちの孫、お風呂上がりに、素肌にチェックのシャツを羽織っただけで、DSかなにかをしていた。Kさんが、ちゃんと肌着を着なさいと言ったら、いつもこうだ、と言い張る。それを、孫の母=嫁さんにいったら、私もですと言ってセーターをまくり上げてみせたって。下には何も着ていなかったって。



4月某日 股関節症の友
年は若いが 股関節症では先輩格の友が、いよいよ手術をするという。痛みがきつくなったのですね。弱音を吐かず、どこへでも出かけていたけど。えらかったのだなあ。
弱音だらけの私は、もう長距離の運転もできず、徒歩5分もきつく、腰痛症もセットできてるから重い物も持てないと、ぼやいているばかりだ。
そういう弱者になって、はじめて人の痛みもわかってくる。小学生の時、股関節が悪くて揺れながら歩いていた子をピョコタンと呼んでいた無神経な私を、いまやっと恥じている。今の私はピョコババア。見回すと、同類はおおぜいいる。
かつての五体満足、壮健さや若いときの聡明さも、人を見下す材料ではなく、単にラッキーだっただけなのだ。神様ありがとう、でした。もう十分だと思っているけど、それに気づくまでは生かされているのだなあ。
友よ、手術の成功を祈ってます。



4月某日 全国紙より
学校がはじまって、避難民の子どもたちは避難地の学校に編入している。新潟県は、全国一で968人の転入。これは朝日新聞の一面でした。うちの学区にも編入生あり、と小さなお友達から聞きました。



4月某日 全国紙には載らないこと
311大震災以来、新潟市には中国人が約5000人避難してきて、定期便と救援機で空路、中国に帰国していたんだそうだ。領事館問題がくすぶっていたけれど、こんなときは友好を前面に出したいらしい。(夕方の地元ニュースより)



4月某日 筒井康隆『漂流』を読む
 子どもの頃からの読書遍歴かつ自伝。田川水泡『のらくろ』江戸川乱歩『少年探偵団』からハイデガー『存在と時間』まで。
 この人はこの本をこんなふうに読んできたのかと自分の読書遍歴と合わせながら、読んでいくからおもしろかった。
 とりわけ、筒井らしくおもしろいのは、各章の終わり方。
(のらくろを夢中で読んでまね描きしていたが)「それが『筒井康隆全漫画』という一冊の本になるなど、その頃のぼくはまだ夢にも思っていない。」「その江戸川乱歩に見いだされ作家としてデビューするなどとはまだ夢にも思っていない。」と、「夢にも思っていない」のフレーズが繰り返され、うれしい驚きのおまけが用意されていること。
 夏目漱石では『坑夫』をかっていて、『虞美人草』を中途挫折した私は同好の士と喜んだが、その理由が「落語的な語り口でユーモアがちりばめられていたから,なんとか読めた」というのにはびっくり、さすがの筒井!
 チェーホフの『結婚の申し込み』は、筒井が舞台に立ったなつかしい戯曲というが、私も高校で演出をした物語なので、なつかしかった。筒井は役者になりたかったのだ。私も、それで食べていけたらなあ、なんて思ったこともあった。
この戯曲は、田舎の地主の令嬢とその父、彼女に求婚しにくる隣りの若者の3人だけの一幕ものなのだが、全員同期生でやった。学年のマドンナだったニキビの美少女、10歳サバを読んでいるように見えるでこぼこ頭で坊主がりのオッサン風男子、ひょろひょろと背の高いだけのたよりなげな男子。配役は、ぴたりと嵌っていたから、演出になんの技もいらなかった。役がないから演出ねといわれただけなのだ。
その男子ふたりに上演後に呼び出された。若者役がいうには、かたわれがあんたを好きだといってるからつきあってやってくれよ、だと。ゲッ。そんな気持ちは全然ない、と答えると、脇でひかえていたオッサンは、じゃあ俺の気持ちはどうなるんだよお〜とわめいていた。わけのわからぬやからと一緒にはおれない。私は演劇を捨てた。そうやって捨ててきた道がたくさんあって、残念な人生だった。

4月某日 鶴見俊輔さいごの本だって
『かくれ佛教』をよむ。これも自伝的な回想録。
    以下は自分のためのメモ
☆「ヘレンケラーのことば u n l e a r n」 
(彼は 「まなびほどく」と訳している)「習ったとおりにしゃべるのでなく。」・・・いい言葉だなあ。
☆「知性のcradle(揺り籠)は疑いなんだ。疑いを全部切り捨てるような境地に行くのは、これはファナティシズム、狂信の境地」・・・ ほとんどの宗教は狂信だね。キリストは存在していたか、その疑問に宣教師(のちのK大学の学長)は、まず信じなさいと言った、それで洗礼は受けなかった私がいる。
☆長生きは幸福か・・社会のなかに閉じ込められる・・「その老人たちの活路はボケるだけですよ。ボケると感覚がにぶくなってくるから、ボケることには活路がある。」・・そうそうボケることには意味があると私も思うわ。寂寥感抑うつ感から守ってくれているんだわ。



4月某日 老人介護の心理問題 2
先般のAさんの話をツレにすると、あなたたちはそうはならない、と断言する。どうして?
金がないだろ? はい、Aさんも私も専業主婦ですから。
金のないばあさんは、ああすまないねえといって頭を下げるしかないだろ。けれど、大金持ちは違うが、小金を持っているばあさんは、なんでも金で片がつくと思っているから、自分を譲らない、頭を下げない、死ぬまでそう。(そうそう、Aさんの母も私の母も商売をしていたわ)
キッパリおっしゃるが、喜んでいいのか?悲しむべきか?



4月某日 老人介護の心理問題
 知り合いのAさんは、ながく自宅で義母の介護をしていた。ご亭主は東京に単身赴任で、世話は嫁のAさんがひとりでやっていた。たいそう気の強いお年寄りで、集落で小店をしていた。体が利かなくなったので、同居した。オムツをするのをいやがって、でも、まにあわなくて、後始末におわれていた日々だったそうだ。
そのご亭主は週末に帰ってきては、自分は酒を飲みながら親には美味しいものを食わせてやれというだけ。男の俺が女の体を触れるかと言って排泄の世話はまったくしない。
育ち盛りの子供たちも抱え、家計のやりくり、世話の大変さでしょっちゅう夫婦げんかになったそうな。
 過去形が出てきているからお分かりでしょうが、その義母さんは亡くなられています。
葬儀のあとで、こういう経験のある親族の女性たちからだけ、たいへんだったねえ、と労わられた。Aさんは、どの家も介護は女が引き受けて苦労していたのだと気が付いて驚いた。ご亭主も自分も戦後生まれなのに、戦前生まれの親に育てられた男は、結局は戦前の価値観を引きずったままだったのにも、唖然としたそうな。(そうだそうだ。)
 そして、今から思うと、血のつながっていない義理の母だから、まだよかった。自分の母親も、体が不自由になっている。でも、自分では歳をとったのに気が付いていないで、若いときのままの気分でものをいう。みにくくなって、耳が遠くなり大声でどなり、ますます頑固でわがままになっていくのを、見るに耐えない。私もああなるのかという恐怖心は大きい、ぞっとする、という。(まったく同感です)



4月某日 扉
「どこの扉もあかないときがある」 うんうん。
年寄りに言葉が通じなくてめげていたときに聞こえてきた。
それをあけるのは「知性と理性である」と素敵な言葉。
言っているのは三輪明弘だけどね。
ただいま、ストライキ中。自分で扉を閉めている。



4月1日 晴れ
 季節がぴょんと変わり、暖かで穏やかな日でした。
友人が外仕事をした、なんていっていたので、窓の外を見ると、その暖かな陽ざしは、曇ったガラス越しに見えました。
冬中、気にはなっていたのです。えいっと、私も外へ出て、ガラス戸に水を撒いて洗いました。
 あれ、車の陰に、男の子たちが隠れています。公園の周りにも何人か。
「かくれんぼしてるの?」と聞いたら「缶けりです」だって。たのしそう!昔々、暗くなるまで缶けりして遊んでいたのを思い出しました。
 


3月某日 車のナンバー
 家の近くの高速道路は先日、少しだけ北に延びたが、それでも県内でちょん切れて,終わり。そこから先は国道に降りて、えっちらおっちら山形県に行くしかない。だから,ふだんは県外ナンバーの車が走っていても、庄内、山形か、せいぜいが秋田だった。
それが、地震以来いろいろな県のナンバーが走っている。先々週は栃木の救急車が走っていたり、災害支援のプレートを付けたコンテナ車がいたり。
さいきんは、宮城、八戸、福島ナンバーのトラックが多くなった。東北自動車道がまだ、不便な状態なのだろうか。

 阿賀野川の近くの図書館に行った。ここにも八戸、福島のナンバーの車がいた。どこに避難しているのだろう。
カウンターに、私くらいの年格好のオッサンが立っていた。なにか話しかけられていたが「返すだけだよ、あした福島に帰るから。また来るかもしれないけど、そのときも、これで、借りれるのかな」と言っていた。私らが使っているプラスチックのバーコード付きのカードでなく、紙切れに印刷した札だった。「いいですよ」、といつも気さくな図書館のお姉さんは答えていた。ああ、新潟市はこういう支援もしているのね。いいね。
 「おーい帰るぞ〜」とオッサンが大声で言うと幼稚園から小学1年生くらいの子どもが三人かけよって、福島ナンバーの小型乗用車に乗って出ていった。孫かな。子どもたちは放射能から守りたいよね。



3月某日 仙台市の
 甥っ子から,震災後はじめて電話があった。家族全員無事なのは聞いていたが、電気も水も復旧したという。よかったよかった。高台なので家の被害もなかったらしい。幸いなるかな。
 ここ新潟では朝は雪が積もっていた。それでも、雪の下からチューリップは芽を出し、水仙はつぼみを付けた。春まぢかだ。
テレビに映る被災地も雪景色だ。寒かろうね。
あと、もう少し、ご辛抱ください。



3月某日 原発からの自主避難
 福島市から自主避難してきた人に会った。彼は新潟市内のSホテルに家族4人で滞在している。
原発から70キロ地点。市の郊外に住んでいたが、放射能(あえて、こういう普通の言い方をしたい)は市の中心部が多いのだという。盆地なので、風向きや地形で濃淡があるらしい。同心円では断じきれないのだ。
政府の発表は全く信用できず、8時間並んでようやくガソリンを手に入れ逃げてきた。中・高校生の男の子がふたりいる。子どもたちを危険には遭わせたくないので、と。
自分はインターネットからの放射線量の飛散情報を元に行動している、御用学者が「心配はない」というのを、うのみにしている人だけが留まっている、アメリカが80キロ圏内退避を自国民に勧告したがアレが正解だ、そうな。
 市や県が提供している避難所(体育館など)に来ているのは20キロ圏内の人たち、今日は約9000人。旅館、社宅、公営住宅が提供されるようになってきた。
 なじみの電気屋さんの話では、福島の金持ちが新潟市に、たくさん自主避難してきていて、市内のホテルは満員だ、そうな。
彼は、大金持ちと言うより、つつましい知識人にみえるが,いつまでホテル滞在を続けられるのだろう。
ほんとうは、報道で知るより、すごくたいへんな事になっているのだネ。



3月某日 水 そのほか
 東京都の浄水場で放射能が検出された。微量なのだが、基準値を超えたとかで、乳児には飲ませないように、という政府からのお達しがあった。
 東京都のミネラルウオーターが売り切れたのだろう。クロネコヤマトへ宅急便を出しに行ったら、先客が二人いて、ひとりのおばあちゃんはペットボトルの水を3パック持ち込んでいた。(東京の孫用なんだろうなあ)
 もう一人の男性はカセットコンロのボンベの大箱をふたつ。爆発物なので受け付けられないんですよ、とクロネコのおばさんにいわれて、「どこへいったら引き受けてくれるんでしょうねえ、」と困っていた。被災地向けなんでしょうね。
 翌日、東京の水質検査では基準値が下がり、水道水を飲んでも良いなどと発表していた。たった一日の、あの騒ぎはなんだったのだろう。
 原発の作業員が被爆したニュースもあった。下請けの下請け?20代、30代の若者なんか使わないで欲しいし、この人達の軽装ぶりはなんだ!?長靴も履かないで、ビニール袋のような保護材姿で、水の中に入って被爆とは!(宇宙飛行士のような重装備で臨んでいると思っていたワ。)
化学知識の乏しい私でも、その危険性が想像できる。なにをやらせているんだ!20キロ30キロの住民が避難しているというのに。
 たいへんだねえ、現場の人たちの苦労には頭が下がるねえと思っていたけれど、だんだん、政府や東電や、そういうトップの馬鹿さ加減に、憤りを感じてくるようになったワ。



3月某日 新潟県への避難民は
一時、一万人を超えたが、今は7500名に落ち着いた。仕事があるから帰るという人もいるからなのだそうだ。
うちの区の体育館も避難所になっている。いつまでいればいいのだろう。

原発の恐怖は終息するどころか、福島の野菜を売るな、原乳を廃棄せよ、東京都の乳児は水道水を飲むな、というところまで、広がってきた。
日本国から撤退せよという諸外国の方針は当たっていたのかもしれない。怖いね。



3月某日 地方紙にも載らないこと
新潟高校、長岡高校などセミナーハウス(宿泊施設)をもっている県立高校でも、福島原発から避難してきた人々を受け入れているそうだ。先生方も、率先して働いている模様、ごくろうさまです。
新潟高校には40名。



3月某日 折り紙
 母は、先週から折り紙をはじめた。幼稚園で習ったことは忘れないのねえ、と笑う。奴さん、はかま、二艘船を作った。「本があればもっと作れるのに」と言いながら。
 入院したのを知らなかった友達が、折り紙で折ったひな人形を贈ってくれたのを、宅急便のヤマトさんは、病院へ転送してくれた。その友人へ代筆ながらお礼を言うと、こんどは金太郎さんの折り紙人形の写真を送ってくれた。折り紙名人の友達なのだ。
これが刺激になるかな、と折り紙を買っていたのだが、いっこう、そんな意欲はなかったのが、地震後、やってみようかしら、と生来の負けず嫌いが復活して、作りはじめた。
 つきそっていて、手持ちぶさただった私はかぎ針編みでミニマフラーを編んでいた。「おかあさん、あなたもやる?」と、なんどか聞いても、手を出さなかったのが、今日は、うんと言う。四苦八苦しながら、かぎ針編みを始めた。「50年ぶりかもねえ」と言いながら。もっとかもよ。

(後日談)折り紙の本を持って行くと、あれこれ見ていたが、「箱は、チラシの紙で、よく作ったわ。」というので、折り紙が苦手な私だが、本を見ながら一緒に「箱」を作り始めた。解説が下手な本で、途中でわからなくなった。その先を読みながら、なんとか形を作れたが、母はそこで止まってしまった。
「折り鶴は作れるわ」と言っていたが、これも途中でわからなくなった。私の作ったのを元に戻し,一段階ずつ一緒に折って、なんとか鶴にはなった。
かぎ針編みは1時間以上悪戦苦闘していたが、わかんないわ,と、投げ出した。このへんが限界のよう。



3月某日 全国紙には載らないこと
うちの区に韓国軍が来ています。
地震の復旧救援に、岩手だか宮城だかに出動していた韓国軍。福島原発の爆発のニュースで、いち早く待避命令が出て、新潟まで撤退してきた。海浜緑地にテントを張って駐留しているという。はて、どうするだろう、これから。



3月某日 息子は宇宙遊泳中
 地震前、母は大ボケだった。3人の人が来て笛を吹いている、うるさいから出ていってもらってくれと看護師に訴えたりして、正気には思われていなかった。
 地震の前日のこと、訪ねていくと、さっきまで息子が来ていたという(そんなわけはないのに)。
<母の話>息子は、何もしゃべらないで、ずっとそこにいた。いつまでもいると会社に遅れるよ と、いうのだけど、黙ってずっといる。そのうち、いなくなってしまった。どうしたのかなと、なんども電話するけど電話に出ない。会社にまにあったかなと会社に電話をすると、”○○さんは宇宙をさまよっています”といわれた。
”宇宙遊牧民と言って、ほおっておくと どこへ行くかわからないので、所轄の警察署に届けてください。
実を言うと、朝日新聞社が、宇宙へ日本人を家族で出す計画を立てていて、○○さんが当選した。”と言われた。名誉なことなんだって。家族全員の生活のめんどうを見てくれ、小学生から勉強会に入られる。しかも月給が50万円なんだって。50万円よ。よかったねえ。これで安心だわ。
あまりに壮大なスケールの話に思わず、それで、と笑いながら促して聞き入ってしまった。1時間もしゃべり続けただろうか。
12才年上の叔母に、この話をすると、わかるわ、ボケと言っても、本人なりに気にかかっていることをしていて、意味があるのよね。家のおばあちゃんは、夜中に押し入れの布団を全部出していた、親戚の者が来るから仕度しなければといってね、と経験談を話してくれた。
とんでも話だけど、息子を気にかけているのが、すんごくわかる大ボケ大夢でした。



3月某日 地震のおかげで
入院中の母のボケが治った。それまで、ボーッとしていて、しかも誰もいないのに誰かに声をかけていたり、誰も来ないのに誰かが来ていると看護師に訴えたり・・・医師は,入院が長くなると皆ボケるのだ、と言っていた。
それが、地震以来、緊急ニュースのテレビを観るようになった。テレビはつまらない見るものがないと家にいるときから言っていたが、今は違う。
尋常でないドキドキ感を持って、可哀相ねえ、と同情し、また、私はこんな目に遭わなくて幸せだわ、と「人の不幸は蜜の味」の極致もあって、退屈がふっとんだのだ。
そう、ボケは退屈から、孤独から、くるのだわねえ。



3月某日 全国紙には載らないこと
あるブログで、海外で視聴できるNHKニュースで、福島第一原子力発電所の3号炉の水素爆発映像を流している、と言っていた。なるほど、ユーチューブで見られた。
(真意のほどはわからないが)常時、撮影していたのだから、その映像があっても不思議ではない。なぜ、国内には公開しないのか。やはり報道規制がかかっているのか。あれをみれば、アメリカは80q圏内退避勧告を出すわけだわ。



3月某日 全国紙には載らないこと
新たに建設されていた県営広神水力発電所が16日に運転を開始した。最大出力1600KW。「微々たる量」と県企業局は発表しているが、いいタイミングだった。おかげでか、雨のせいか、復興が遅延しているせいか、16日から始まるはずの計画停電は中止された。うれしいニュースだ。
がんばれ、日本の水力発電所。



3月某日 全国紙には載らないこと
福島から新潟に避難民が来ている。新潟市は体育館を開放して受け入れている。15日、580名。これはNHKテレビ全国版でも伝えている。しかし、そのうち380名は中国人だという報道はしていない。新潟には(問題の)領事館があり、定期航空便もあるから。しかし、空路は月末まで満席状態だという。
中国さん、リビアのときのように救援機を出してあげてください。



3月某日 ガソリン売り切れ
夕方、ガソリンスタンドに張り紙
「レギュラー売り切れ」
「灯油売り切れ」
どんなに官房長官が、国民よ冷静に!といっても、こうだ。
私だって、地震以来ちびちび給油していたけどね。

スーパーから、トイレットペーパーも消えた。
そして、なんとまあ、米もなのだ。ここは米の産地なのに。


3月某日 計画停電その他
 12日未明 ここでも強い揺れが、またあった。ベッドでケータイのワンセグテレビを付けると、きのうから一晩中やっているNHKが、長野県北部を震源とする震度6の地震を伝えていた。新潟県は十日町松代方面で被害が大きかった。もともと地滑り地帯。あれから、数日ずっと避難所暮らしが続いている。全国放送では伝えていないが。
秋田でも、山形でも、茨城でも、地震はあった。東北太平洋岸地震でなく、東日本大震災と民放は言っている。そう言い直して欲しいな。

 不謹慎なようだが、ここでは、わたくしごとのぼやきに終始している。
現地の話は報道番組で見知っていらっしゃるだろう。心傷む情景だが、今の私たちには何もできない。天皇どうよう、「励ましのお言葉」をかけるしかない。

 14日に東京電力が計画停電をする、と発表があった。二転三転して、午前の部は中止になった。けれど、電車の運休、間引きはあって大混乱だったようだ。
東京が、機能麻痺になったほうが災害対策が進むのだろうね、とのんきにテレビを見ていた。

 15日、朝、出会った知り合いが、東京の娘に、懐中電灯も乾電池が手に入らないから送ってくれと言われたけれど、ホームセンターKには何もないのよ、という。たいへんなのねえ。そんな相づちを打って家に帰った。すると、東京にいる娘から同じようなメールがきていた。この町中さがしても、ホントにない。
 懐中電灯、単一の乾電池(懐中電灯用だ)、携帯ラジオ、カセットコンロ、ボンベ。おかしいな、いくらなんでもへんねえ、と知り合いの電気屋さんに電話したら、ここも東北電力が計画停電をするから、もう在庫がないんだよ、と。
そうか、じゃあ、関西の子孫にたのめばいいいじゃないの、と名案の浮かんだ私は、家にある懐中電灯全部、電池、携帯ラジオをヤマト宅急便に持ち込んで東京に送ってもらう。明日着くかどうかわかりませんよ、といわれたが引き受けてくれた。
 それから、関西にメール。軽〜いのりで、引き受けてくれる。ところが、
ところが、引き受け手は驚いた。コンビニにない。では、とスーパー二軒に行ってもない、薬局に行ってもない。家電量販店まで行ってくれたが「被災地に優先していますのでしばらく補充ありません」の張り紙。
 とうとう、全国的規模の物流被災になってきた。

そして、どうしたかって?
入院中の母の留守宅から、カラの災害救急袋と懐中電灯、カセットコンロ、ボンベを持ってきて、停電に備えた。ただ、単一電池だけは・・・・・・。



3月某日 マグニチュードは9.0に
訂正された。
明治いらい観測史上大大の地震。



3月11日 地震 
軽い冗談を言ってられない。ほんとに大地震が起こったのだね。
病院で付き添っているときに地震が来た。院長先生がきて、ベッドをテレビの下から動かしてくれた。結果的には、こちらでは被害はなかった。緊張していたのか、夜はまたおなかをこわして、トイレ通いをしていた。
 東北地方の太平洋沿岸は酷いありさまなようだ。
マグニチュード8.8。観測史上過去最大。
ライブで見ている津波もひどい。



3月某日 地震雷火事 (おやじはなし)
へたばって寝込んでいて、あ、めまいがすると思ったら、電灯が揺れていた。三陸沖で地震。テレビは,その後津波情報を流している。
ウトウトしていると、ドドーンと落雷の音。ご近所のツタヤやスポーツジムのあるエリアの隣の家に落ちたらしい。直後、そばを通った家族は2階の屋根から焼けていたと言っていた。消防車は出動から2分とかからず到着しただろうけれど、物置小屋、車庫、一部母屋が焼けた。夕方のTVは,そう言っている。



3月某日 佐野洋子をよむ
 曾野綾子が好きな人は佐野洋子は嫌いなようだ。わたしも、いい人になろうとするときは佐野洋子を読めないので、ずっと読まなかったが、八つ当たりしたくなるときは、するりと読める。
「ほんとに自分を支えているのは”怒り”だと思う」、「母親との関係は愛じゃなくてヒューマニズムだけ」、「”生きる”というのは、死ぬまでのひまつぶし」と言いきって、ジャガーを鳥のフンだらけにして死んでいった洋子さんはえらい。(『佐野洋子対談集・人生のきほん』)



3月某日 いっていいことわるいこと
 東京から見舞いに来た人に、東京の人間は田舎の人間に比べて誠実さがない、口は上手いが信用できない、などと言ってはいけないよ、というと、あら、だっていってやらなきゃわからないでしょ、と平然とするのは、すみません、また母である。
いつになったら、大人になるのだろう。なるわけないわと孫。強欲なものが生き残ると夫。
たえず人を非難しては自分は正義づらをする。こういう遺伝子は受け継ぎたくないと自戒しているが、はて、私もだろうか。姑の時はこういう煩悶はなくてすんでよかった。母の望むように動かないといって非難される立場になるときついね、うちの子も一人つぶされた(雑だとか乱暴だとか言うが、その子に助けられてきたんだよ)。
 きょうはぺらぺらとよくしゃべった。元気になってきて、時間をもてあまして、昔の話をする。姉が女学校の陸上部の選手で遠征費がかかったので、それに困った父親はおまえは金のかかる部に入るなといわれた。(なあんだ、童話部だったのはそういうわけか。)母は6人きょうだいの二番目。男は四番目に一人。姉は国鉄に就職して、職員パスのただの旅をしては土産を持って帰って親に喜ばれていた。給料は家に入れてないのに喜ばれていた。私は一番給料の高い会社に就職して家に給料を全部入れていたのに。(姉は得をして自分は損をしているとおもっているようだ)
女学校の帰りには病身の大叔母の家の手伝いに行った。2階を下宿にしていたのだという。しかし、その頃小学生だった四女の叔母がバケツを持って魚市場へ行って網にかかっているイワシをもらって帰り、家でヌカイワシを作っていたことは覚えがないと言う。(これで祖母が末期にヌカイワシを食べたがったわけがわかった)家の手伝いは幼い叔母たち?齟齬も多い。
それから、とても苦労して子どもを大学に出した話になった。仕送りが大変で、少しでも金が貯まると銀行へ行った。そう、それはほんとう。かあさんえらかったね。
姉も東京に帰りたかったが、家計を思って地元の大学へ進学し、高校大学とも奨学金をもらいアルバイトをし自宅で勉強していた。
母が本当に大変だったのは都会へ出した息子への仕送りだったのはわかっていた。国家試験を目指していたので、母は卒業してしまうと学内の図書館を使えなくなるから留年しろと言って一単位落として大学にとどまらせたと自慢していう。そしてウン年の大学生活の後も勉強生活を支えていたという。女手一つでやっていたのだから偉かったと思う。「たいへんだったんだよ。だけど、あとから生前贈与だなんていってもめたらいやだから証拠はみんな処分したんだよ」と自慢げに付け加えた。

家に帰ると、人生の師としていた方の訃報がお嫁さんから届いていた。毎月ハガキでやりとりするだけの近年だった。数年前、甥の結婚式にでかけた帰り道に,先生の療養先を訪問した。腰を痛めて歩けなくなったのを嘆いてらしたが、ハガキでは私もですと、いつも同じ愚痴を言い合っていた。母と夫が一緒だった。その時一緒に撮った写真の笑顔が良かったからと葬儀の遺影に使い、私が出した最後の写真はがき(おちゃらけた消防署の旗の写真)をお棺に入れたと書かれていた。先生が返事をお書きになれなくなってからはやさしいお嫁さんが返事をくれていた。読んでいたら涙が出てきた。『100万回生きた猫』のように、おいおいと涙がこぼれた。一晩中泣いていた。「しょうがないじゃないか」と夫は怒り声でいうが、涙がでるんだから、しょがないじゃない。



3月某日 コタツは悪者ではない
「あんた、コタツ、いらない?もらわない?」と母。
「うむ?あの居間にある椅子用のコタツのこと?」
「そう、アレが悪かったと思うのよね、足がむくんだのは。」 ギョギョ!
「なにいってるの!コタツは全然悪くないわよ」
「だって、コタツにずっと入っていたから足がむくんでサ」 オイオイ
「ちがうの!そりゃわたしも、はじめは運動不足や冷えのせいかと思ったわよ。でもね、Tちゃんが来て足のマッサージしてくれたでしょ。そしたら少しは細くなった。血流が悪かったからなの。でも右足はマッサージしても効果がなかった。それは心臓が原因だとTちゃんがいって、それで、検査に行くことになったんだったでしょ。」
「私、心臓なんてわるくないわよ」
「悪くなったのよ、肺の働きがよくないから無理してんの」
「あら、肺なんて、ガンセンターの女の先生に薬をもらってゼイゼイしなくなったのよ」
「それは、五年前の乳ガンの手術前のこと。おととし肺炎でここに入院したじゃない」
「・・・・」
「そのとき、三ヶ月も入院して、片肺がもう機能していないから、感染症に気をつけて無理をしないようにと言われていたでしょ」
「・・・・」
「今回も検査してすぐ、在宅酸素が手配されたのに、酸素チューブ付けなかったじゃないの」
「だって、息苦しいんだもん」
「そういうレベルの問題じゃないのよ」
「ああ、使ってたわよ」「ウソよ、すぐ外していたし、寝むっている時は使っていると言ってたけど、見に行ったら全然使ってなかったわよ」
「・・・・」
「病院へ着いて酸素マスクかけられても、もうろうとしているくせに、すごい力でマスクをひっぱがっすものだから一晩中格闘していたのよ」
「・・・そんなことないよ・・・・」もちろん、覚えていない。
ドクターが説明しても 無駄だと、いわれるとおりでした。

「わたしもとしかねえ」
「はい、そうです。わたしだって白髪のばあさんですから」



3月某日 三月なのに雪
暖かな二月が終わったら、雪の舞う三月になりました。
きのう、母を見舞ってくれた東京の人は、ホッカイロを張っていたそうですが、風邪を引かなかったかしら。
きょう、長岡から見舞いに来てくれた人は、銀座で買ったという毛皮の襟巻きをしてきました。雪国の人は、まだ冬支度です。
この寒波が終わると、ほんとうの春になる、わよね?ね、ね、ね?



3月某日 カダフィイのせい?
ガソリンが先週@137円だったのが、今週は142円になっていた。(もちろん、レギュラーですが)5円も値上がり。世界情勢に振り回されているか。こればっかりは買いだめできないしねえ。倹約できないねえ。



2月某日 倹約令解除
 積み立てだとか,マイホーム資金だなどと、いってられないから、もう誰かが倒れないように、使うところは使ってしのごう!デパ地下食解禁。暖房もけちらない。乾燥機もじゃんじゃん使う。ただし、もやしは19円のにしておこうよ。



2月某日 母げんきに復活。
 心配かけると悪いので、ご報告。
昨夜は眠れなかったとぼやいていた。あれっ、夜の容態がよかったので、泊まりこみはしなくていいといわれて帰宅したのに。看護師さんもそういう。寝られなかったようですよ、寒かったので、5時に暖房を入れました、といわれた。ご配慮ありがとうございます。けれど、母は、”よなかの1時か2時頃、電気屋さんだかなんだかの男の人が部屋に来て、天井の暖房を直していった、それから暖かくなったが、うるさかった”、という。(そのような事実はない)
”息子が持ってきた赤い魚が冷蔵庫に入っているから出して”という。昨日、息子夫婦は見舞いにきたが、そういうものは持ってこない。母がすぐ食べられるよう気を使って「高野フルーツパーラー」のゼリーを持ってきたのに、それは覚えていない。赤い魚の夢を見ていたのか・・・・・絶対、寝ていると思うわ。
 昨日は見舞い客相手にとうとうと、説教調の演説をぶっていた。疲れて、悪化するかと皆ハラハラしていたが、本人は、がぜん元気になった。
朝食は半分食べた。昼食も半分食べた。
 昼、おわかいの、と付き添いを代わったが、「おわかいの」は、とうとう、ぎっくり腰をおこし、夕方から寝込む羽目になった。温シップをし、電気毛布に包まっている。中腰で食事介護をしたり、話を聞いたりしていたねえ。緊張していたからわが身をかえりみず精一杯尽くしすぎたのだろう。腰痛もちの私ははじめから、そういう姿勢はしないので、まだもっている。そういえば、気温も昨日とは10度近く差がある。下がったのだ。寒さも禁物。早く良くなあれ。
 再度、ゆうがた、私が病室に行くと、母はベッドの上に起き上がっている。びっくりして、どうしたの?と聞くと、トイレに行こうかと思って、とふつうに答える。元気になったのねえ。でも導尿しているから、トイレに行かなくてもいいの。勝手に起きだしちゃダメよ。なんで?安静にっていわれてるでしょ!あら、だって動いたほうが元気になるでしょ〜。なに言ってるのおかあさん、おとといまで、呼吸がときどき止まって心配してたのよ、危篤状態だったのよ、エエッ〜?そんなことはないわ〜。  
          (覚えていない・・・・)
 夕飯は完食した。魚の煮汁まで すすった。ひとたれのおかゆも残さなかった。
主治医・・・・あすから食事は普通量にしようか、リハビリはじめるか・・・・・??迷っている? 
数少ない読者さま、ご心配をおかけしました。この話おしまい!



2月某日 マスク
 病院では看護師さんや介護士さんはマスクをしている率が高い。私もマスクをしている。環境になじんでいるが、理由は違う。
今週初めから、朝は痰がでる。鼻水がツー。咳が出る。母も同じだ。
それが、だんだん酷くなって、咳き込み始めるとげーっとなるまで止まらない。どうせ、病院にいるのだからと検査をする。させられる。
 「炎症はない。(病院にいても)大丈夫です。」 肺の下部に白いにじみがある。「母親と同じですね、肺気腫。遺伝です」
なぬ?こんなの遺伝するか?非伝染性結核菌が、たしか母はあったはずだから、それが伝染した?それもおかしい。最近の体型は似ている、おなじところがウイークポイントになるのかな。
「でも、のども痛むんです(風邪じゃないんでしょうか)」「上気道炎です」
だから、それ、風邪といわないのかなあ。インフルエンザでなければかまわないってことかなあ。37℃はあるんですけど。重症の病人しか興味のないお医者さんは、「抗生剤は飲まなくてもいいです」、だって。でもねえ・・・・
 病棟でいちばんゴホゴホやってるのが私です、入院患者でなくて。看護婦さんもたいへんですねえ、といたわってくれるが、迷惑そうにみえる。きょうは、娘と付き添いを代わってもらって、家で寝ていた。
 やっと、咳止め薬、去痰剤、抗生剤を出していただいた。ぜんぶの薬を一度に飲んだら背中が痛くなった。  ??



2月某日 安全運転
 マスクをしている人が運転している車が、小路から出ようとしている。左折ランプが付いている。彼は左を見て飛び出す。右から直進してくる車が驚いて警笛を鳴してスピードを落とす。右は、まったく見ていなかったのを、その小路へ入ろうとしていた私は見ていた。風邪のせいか、風邪薬のせいか、注意力が散漫になっているのだねえ、若い人なのに。
人ごとではない、私も気をつけねば。
 先日、借りた車で高速を走っていた後、降りると、カレーの焦げたような臭いがした。あれ、この駐車場のそばに食堂もないのに、へんだなと思ったら、臭いの元はタイヤだった。焦げ臭い。この車、ギアレバーがハンドルの脇にあるタイプ、サイドブレーキは足で踏むタイプ。慣れていない。サイドブレーキを外さず、高速運転をしていた!?  らしい。
 次の日、左車線に変更するとき、後ろは確認したが真横は見ていなかった。変更後、まうしろにトラックがいてヒヤリとした。JAののどかな車だったので助かった。寝不足なときは、注意力散漫になっているのですなあ。
 安全運転、1,2,3とチェックしながら,走りましょうね、わたし。



2月某日 食い意地 その3
 食い意地と言えば 母の話である。
ラスク:ばったり寝ていると思われていたから、孫が持ってきたのは病棟の看護師さん用の土産。それをめざとく見つけた母は、わたしも、とラスクを食べた。
チョコ:これもまた、見舞客が来た時用に、ともらった。モロゾフの生チョコ。箱を離さず、くちじゅうチョコだらけにして食べた。 今日の栄養、じゅうぶん。
もちろん、ひとかけだけですけどね、・・・・でも、見上げたものです、食い意地は。
おっと、この遺伝子、私にも来ているのかな、まいったな。



2月某日  食い意地 その2
 母の話。あさ は、看護師が話しかけても返事をしないで昏々と眠っている。検査の結果は最悪の一歩手前。医師は今のうちに、会いたい方は呼んだほうが、とおっしゃる。いよいよか。
まず、彼女の息子にメール。仕事中なのかメールに返事がない。その奥さんにメールをするが、これも仕事中なのか返事がない。そこで、息子のほうに電話をする。仕事中だった。忙しいらしく土曜には行けるだろうが、との返事。奥さんは私が行きますと電話をくれる。が、母は、意識があれば、また(前回もそうだったのだが)、なんで息子が来ないで、と文句を言うだろうと断る。まったくわがままな母なんである。

 皆が悲壮な覚悟をした、その午後のこと。「おなかが空いた、食べたい」と意識復活。では、と、医師見守りのうちに(つまりつまったらすぐ対処できるよう用意して)、プリンを・・・・半分!お茶を湯のみで自分で飲む(今まで医療用綿棒で口をしめらすだけだったのに)。
驚異の復活に医師も驚く。治療の成果がこんなに功を奏するとは、とうの名医も「食い意地だなあ」と感心?する。夕飯も重湯にペースト状のなにか(にんじんか、芋か、シーチキンか2品)、すまし汁。どれもを少しずつ食す。
はいはい、母のこういうフェイントにさんざん翻弄されてきましたが、医学までをだますとはねえ。たくさん食べて元気になってください。
「食い意地は生命の源」です。食い意地、万歳!!



2月某日 食い意地
 あいかわらず、母の話。
入院して、一晩の点滴で、むくみはみるみる引いた。よかった。おなじみのシワシワの骨張った手と足が戻って来た。老人はこれが正常なのだ。いやだねえ歳はとりたくないねえなどと言ってはいけない。
こういうとき、デジカメは便利だ。足元を見られない病人に、ほらっと撮りたて写真を見せる。まあ、と喜ぶ。それで調子に乗るのが母である。
 朝、付き添い食のパンの封を切るとふわぁーと室内に焼きたてパンの匂いが広がる。さて、食べようかとすると、「私もパンが食べたい」という。アレッ、禁食じゃないのかな。「食べたほうが力が付いて元気になるのよ」と訓示を垂れたがる母。ナースステーションにお伺いを立てると、いいでしょうと許可が出る。回復力の強い人だねえ。
「小さくちぎってお湯に浸して食べるのよ」と自ら食い方を説明する。主治医もそう言っている。彼女の生活の知恵は医学の常識まで高まっているようだ。もちろん大間違いも多いけれどね。
 まずお茶を飲みたい、と吸い飲みからゴクンと飲む。と、気管に入ったのかゴホゴホ咳き込んで苦しがり、痰詰まりをしている様子。すぐさま看護師さんが吸引器を押してきて痰の吸引をする。 
それで、やっぱり禁食となった。これは私の注意が足りなかったせいもある。お水も一滴か二滴にしてくださいと、あとで看護師さんから注意を受けた。
食い意地は強く、生命力はある。けれど体力は足りない。
 午後は、「暖かいものが飲みたい・・・缶コーヒーでも、ラーメンでも(!?)」という。とろとろ寝ているが、時々覚醒しては元気にベラベラしゃべる。「病院はふつう、あさ、ひる、ゆうがたに食事が出るもんでしょう。どうして出ないのかねえ」それは、なんべんもご説明をしておるでしょう。
 しかし、専門家が言うには、食べなくなると認知症が進むという説もあり、食べること自体が危険と考える医者もあり、また、すべて摂理のままという医者もいる、このことは「難しい問題」、だそうな。
どれが最善なのか、迷いつつ決断を下さなければならない医師も、たいへんなんですね。



2月某日 ドライブ
 母と出かける。「チョコレートはもっていかなくちゃあね。のど飴もいるわね。」小学生の遠足のように張りきる母。   あのね、これから入院なのよ!
 やっと、入院を承知してくれた。けれど、朝から,目も開けないで昏々としている。さて、車まで、どうやって持ち運ぼうか。救急車に(サイレンを鳴らさないで)来てもらったらどうかと、相談した人にいわれたが、う〜ん、民間救急車を呼べといわれるかなと思案。判断を迷うところよね。むくんでしまって、30sが44s、私より重い〜。一人では抱えられない。それが、
行くわよと声をかけたら、俄然元気になって「チョコレートはなくちゃあね」だって。おうおう、まだまだ、きゃぴきゃぴさんだわ。肩につかまり車まで、歩けた。ホッ。
 シートを少し倒して、走り出す。「いい天気ね」「そうね、雪も雨もなくてよかったね」「ひさしぶりだね」まちなかではキョロキョロ周りを見ていたが、高速に入ったら、フン、風景なんか興味がないか、眠ってしまった。
きょうは、私も安全運転です。



2月某日 羞恥心
赤ちゃんはオムツを替えても恥ずかしがらない。老人の痴呆は、それと同じように羞恥心をとるための遺伝子が組み込まれているからではないだろうか。ぼけていなければ、これはつらいことだなあ。母のパンツの始末をしながら思う。ヘルパーさんに隠していた汚れパンツ。娘になら平気。これはやってやったからか。そう、今、私はお返し、恩返しをしていると思って、なんだか平気だ。先に経験している友達の話のおかげで、いずれわたしも順番に、と覚悟があった。ありがとう、先人たち。長く長く介護をしていた友人たち。祖母の世話を一人で看ていた叔母様。



2月某日 夢
母は夢を見ている。夢の中で会話している、電話している?
「はははは、うん、うん、そうねえ、・・・じゃあ、あした、よろしくねー」
「いくらぐらいの なんだっけ。 あの人わかるんじゃねっか。だいたいわかるよー。」
「栄養とって、もっと食べて、元気になって、ねえ」
「203,203,12,203 まだはいってませんー。いからしからきまーす。203は女の子だけど男の子が入るから203ははやい&%$・・・。203がいちばんはやい」
「だれかー、お水もってきてくださーい!」は大きな声。はーい、今もっていきまーす。水をもっていく。「早いね」と目を開ける。ごくごく、「あー冷たい」そしてまた、目を閉じて、手を伸ばし、「はーはいはい、そうなんです。まあまあまあ、そんで、たべ&%$#??」たのしそうだねえ。
あれっ? 水が欲しいのも夢の中だったの?



2月某日 なぞなぞ
 「とればとるほど ふえるものなーに」、いまきみちの『なぞなぞなーに ふゆのまき』から。さあて、こまった。5才の子どもたちにはわからない。保育園の年配の先生は「とし」と答えたが、子どもたちはポカンとしている。歳をとるってこと、わからないよね。答えは「カルタ」なんだけれど、これも、わからないねえ。今の子どもはやるかなあ。
 そのあとで、『レッツとねこさん』を読む。5才の年長さんの男の子が「むかし むかしのおおむかし」に通ってきた3才の後輩を分析する。そして、自分もあんなだったのかな、と感慨に浸る。5才から3才をみれば、ほんとに大昔なんだわね。
私には衝撃的な幼児文学だった。子どもたちにもたぶん、自分を反映できるライブな物語なのじゃないかな。こんな本、『いやいやえん』以来。久しぶり。たのしかった。



2月某日 入院か
朝、母から電話があった。食慾がなくてねえ、足が動かなくてねえ、入院しようかと思う、という。店も閉めるという。ああ、やっと、その気になってくれた。病院の手配をしてもらって、迎えに行く。ところが、行ってみると家の棟続きの「彼女の店」、コインランドリーにはお客がいる。あれ?
 「そんなこと言ってない。」って?あれっ・・・・・・・。
歩けないけど,キャスター付きの椅子をすべらせて、バリアフリーの家の中を移動はしている。昼にご飯を食べたら、元気になったとケロケロいう。ここにいるんだから、店は開けるという。・・・・。
これから入院すると私に伝言され、駆けつけた叔母も拍子抜け。まあ、あんたがみててやんなさい、と帰る。主治医も本人が納得していないならできるだけ自宅で、というので今日の入院はキャンセルした。あっれ〜。
 夜つきそう仕度はないので、夕飯を食べさせて、オムツをさせて、帰宅する。このほうがゆっくり眠れるよ、というのを「あんがい抵抗はないわ」と受け入れてくれる。これは、ホッツ。
 朝の開店を手伝ってくれている Iさんも、エッ!入院していないんですか、とビックリ。店は開けたが娘さんが来て閉めると聞いていた。やっぱり朝は気弱になっていたのだ。それが、午後になって美味しいものをわんさか食べると、とたんに元気になったのだ。それでも、足は言うことを効かないので、夕方やっと、「店を閉めるわ」と、Iさんに告げる。よーし、準備していた休業の張り紙をし、目隠しのケント紙を貼り、鍵をかけて、眠った母のそばに、「店を閉めると言ったのであしたから、Iさんは来ません」と置き手紙をして帰宅した。
きっと、あしたは、そんなこと言ってない、っていうんだろうね。
 このバタバタで深夜ちかくに帰る。迎えも来なければ、飯時に誰もいないので、おかんむりの我が家の主は、俺は腰が痛い、脊椎管狭窄症だ、と飲んでいる。あれ、また新しい病気ですか。すいませんねえ。



2月某日 火事場のクソ力女
真夜中にパチパチという音で目を覚まし、向かいの家が燃えているのに気がついて119番を回し、「家事です。向かいの家が火事です。うちの住所は・・・・」と教科書通りに電話してから、近所の家をたたき起こしたことがある。
とっさの時、緊急時には力が出る私。40才を過ぎて、天職は消防士だったかな、と思う。まあ、体力がないから落とされるだろうね。



2月某日 ナイトキャップ
 読書は、私にとっては現実からの跳躍である。全く別な世界へ連れて行ってくれるので、その間だけでも浮き世の憂さを忘れさせてくれる。
 寝付けない昨今、『信長と十字架ー天下布武』を読んでいる。大河ドラマ「江」の影響だが、信長のバックは南欧勢力イエズス会、お互いが利用しようとしていたとみているのが新鮮。「パックスロマーナ」(ローマの平和)これは結局、武力による制圧だったのだけれど、信長の天下布武も同じようなことだったようだ、まだ読み中だが、作者は数学科卒の女性、子育て後に古文書講座から興味を持って歴史探究に入った人。文章の明解さは、そこか。聡明だ。ただし、独断的と批判も多い作。
 その前に読んでいたのがサトクリフ『第九軍団のワシ』。これはイギリス駐屯の若いローマ軍士官の物語。20年前に読んだときは、主人公に感情移入して読めたが、今は、おいおい、パックスロマーナというのは占領だよね、住民にとっては植民地支配に他ならないよねえ、今のイギリス人は誰を先祖として読むのだろうと気になってならなかった。
 ツレは明治維新近辺をすべて読み終わったらしく、『戦争と平和』を読んでいるらしい。こんな大作を。ああ、現実から、とおくとおく離れたいのだろうなあ。
 とはいえ、今夜は,ツレはナイトキャップにビールを飲んでいる。酒を飲んでいるときだけ足のシビレと痛みを忘れられるという。糖尿病が進行している。きょうも、つらいことを背負わせました。すみません。
大病院からもらっている薬も効かない。(効かなくても、いざとなったときの(入院の)つなぎだ、とおっしゃっている) でもね、このナイトキャップは、後が怖い現実逃避だよ。どうぞ、御身をお大事に。



2月某日 食慾
一人暮らしをしている母のことで、介護ヘルパーのボスから
「食慾がないといって食べていないようだ、お茶は三口しか飲まないし、足が腫れているし、着替えもつらがっていて、先週より容態が悪いと報告が来ています」と、緊迫した声で電話がありました。いよいよ、入院させなくちゃかな。
 では、家での最後の晩餐かなあと、好物のおかずを作って、様子を見に行く。
いちばん好きな新潟名産の魚「のどぐろ」の焼き物と、鱈の白子のネギ入りお汁と、やわらかいかぼちゃの煮しめに、おやつのどら焼きをもって、これで食欲が出なければもうだめか、と悲壮な決意で駆けつけると、まあ、ご本人は、ケロケロとしたもので、
「今、昨日あんたが持ってきてくれた鯛を、味噌汁にしようか醤油汁にしようか考えていたところ」と言って鍋を煮ていた。
なあんだ、よかった。でも、まず、こっちのお汁を飲んでみてよ。椅子に座って飲み食べし始めたら、あらら、ぐつぐつ煮えてる鍋のことはすっかり忘れている。でも、大丈夫、オール電化のIHレンジですから。
80才で建てた家。寝室の隣に専用トイレ、廊下に手すり、段差のない床、年寄り臭いといやがっていたものが,今ぜーんぶ役に立ってます。よかったね。
「大阪屋のどら焼きは大きいんだよね」と大喜びの母でしたが、さすが、半分しか食べれませんでした。それで大出来よ。よかったね。



2月某日 きょうのいいこと
1 飛行機が目の前10メートル先を横切っていった。
(飛行場のソバを運転中、滑走路と直行する道で)
ひこうきだいすき。
2 佐渡の山の雪が見えた。
(昨夜来の雪が晴れ上がった。)5℃もある。
3 いればがでてきた。
(ベッドの真下の床に鎮座していた)



2月某日 自分で決めたい病
 風邪を引いたようでと医者に行くと、それはこっちが決めますと言われたり、
捻挫したみたいでと保健室に行くと、養護教諭にそれはこっちが決めると言われたりした、という話を聞いて、それはそうだけど、体験的、経験的に、またかと素人だってわかることはあるよね。「ああそうですか、ではよく見てみましょう」と相手の立場も尊重するのが本職だよね、と思う。そんな連中「自分で決めたい病」のツンツン野郎と呼んでやりたいね。
 成人病の人に、食事療法や運動療法をしなくていいのと言うと、薬を飲んでいるからいいと言い返えされる。意地になっている?「そうそう、言われてやるのは死んでもイヤなのよ」(と、忠告あり)「ああ、自分で決めたい病ね」その病気にうまく対処できれば子育てもうまくできたんでしょうねえ。
 母が足が痛いと言っていたとき、じゃあ、明日病院へ検査に行きましょうね、と話して帰ってきた。なかなかウンと言わない。
翌朝でんわをすると、「足が痛いから、病院へ行こうと思うの」と言う。あれ?
刷り込み効果はあったのね。いくつになっても、自分で決めたいのね、他人にどうこう言われたからするのはイヤなんだね。(でも、これは ちょっと 違う問題かな)



2月某日 やっぱり友達
「友達が(しばらく子のところへ)旅行に出ていると、心細いし、なんだかつまんない。帰ってきたら、ホットしたわ」と母。お互い足が悪くて、行ったり来たりなど、もうしていない。たまに電話で話し込んだりしているだけのはずなのだが、やっぱり友達っていいのねえ。 私もおんなじよ。あと24年、友達がいてくれますように。



2月某日 お笑いはどそん亭劇場
どうぞ、深刻にならずにたのしい母ネタにおつきあいくださいね。
 母は夢を見たことがなかったらしい(あるいは起きて覚えていなかったのかな)。
「この頃、夢かうつつかわからなくてねえ」、という。「あんたのだんなさんとご飯を食べていたと思ったら、いつのまにかディズニーランドにいるのよ、だからこれは夢だったんだろうね。」
そうだねえ、だんなは来ていないし、ディズニーランドは私は行ったことがないけど、おかあさんは孫を連れて行ったよね。元気もんでしたねえ。
「黄土色の服を着ているおじいさんが、そばの長いすに寝ているの。夢だなあとおもって、また目を開けるとまだいるのよ、福耳でねえ」
そりゃあ、七福神の神様かねえ、あはは。
「そうそう、私には神様が付いているんだよ」 はあ?
「ものをなくして探し回っていると、いつのまにか目の前に出てくるんだわ」 ふ〜ん。
 そんな話をしていた日、母は貯金通帳をさがしていた。
あのバッグに入っているはずというが、あのバッグには入っていない。そのバッグ、このバッグと、そこらじゅう、探していたがあきらめモード。どれ、と私が腰を上げて、押し入れや引き出しを探すが、みつからない。それが、目の前の机の上に、いくつかの通帳が。?
ここもさがしていたよねえ?これぇ?
「そうそう、やっぱり、私には神様が付いているのね。」
おいおい、ちょっと、ちがうよ。
それはそうと、神様、母の入れ歯を返してください。



2月某日 テレビを見ながら
@前原外相がロシアへ行ってあちらの外相と会談を始めるところを放映していた。先頭に何も持っていない外相、そのあとに書類を小脇に挟んだ人たちがぞろぞろ入室。机に向かって腰を下ろしながら、前原君は両手袖のある椅子を「自分で」手前に引いて腰を下ろす。見ていたツレは、なんだ行儀が悪い。と怒り出した。私も変だと思う。秘書官なり、会場係なりが椅子をおしてやるべきじゃないだろうか。前原君が庶民だから、ではないような気がするが。

A長年、四国のある船に乗務していた人が定年になったから東北の故郷に帰る、という。おいおい、家はあるのか。家族がいるのか。突然親族の家に寄生するのか。歓迎されているのか。故郷を離れていた人は、なんだか、のんびりと一世紀前の家族感を持っているような気がするよ。田舎には田舎の人の(ハイブリッド車に乗ってオール電化の)暮らしというものがあるのに。



2月某日 テレビを見ながら
女子のバスケットボールの試合を見ていた。JX(エネオス)とトヨタ。
「なんがだか、さわやかに見えるね、JBLと比べると」と私
「NBAっていいたいんでしょ、」と子孫。
あれ?JBLってなんだっけ?スピーカーだっけ?
これだよ、日本のバスケットプロリーグ。あれあれ、わたしも英語に弱くなったね。祖母はビーチセンターを、ずっとピーチセンターといっていた。いい勝負?




2月某日 レタスの切り方
 最近うちでは千切りにしてドレッシングをかけて食べている。そうしないと噛みきれない人がいるからだ。昔は「レタスが金気を嫌うから包丁で切らずに手でちぎるべし」と言われていて、そうしていたが、今は、そうもできない。
 その昔、叔母と母はレタスの切り方喧嘩をしていた。叔母は包丁で半分に切って使うと主張し、母は一枚一枚むいて使うと言い張り、互いに一歩も引かなかった。叔母の家は少人数だったし、母の家はそのころは大所帯で1回で丸ごと使っていたのだ。外側と中側ではレタスの色も柔らかさも違うから、それぞれの暮らし方で、なにが良いのかは違うのにね。



2月某日 母と酸素
 足がむくんでいた母、病院へ精密検査を受けに行った。三越へ行きたいねえと言っていたが、いざ孫が迎えに行ったら足が痛くて歩けなかった。皮膚が破れて水が出た。ももまでパンパンだ。
 CT、レントゲン、心電図、血液検査、尿検査、ドコモ悪い。
もともと片肺が機能不全だったが、それも更新。心不全もあり、便秘もあり。とにかく、血中酸素濃度が著しく低下していた。それは、診察室で酸素吸入をしたら、ややよくなったので、在宅酸素の手配をしてくれた。
便秘薬と利尿薬が出た。これで少し改善するかもしれないし、しないかもしれない。できることはこれくらい、とのこと。医者は、非常に危機感をもっている。
 自宅へ戻ると、すぐ、医療メーカーの人が在宅酸素キットを持ってきてくれた。時代は進化しているなあ、と驚いた。酸素ボンベではなく、空気から酸素を濃縮して取り込む、何という名かは忘れたが、とにかくはじめてお目にかかるコンパクトな機械だった。これなら、ボンベが空になったぁあらどうしましょうという心配はない。
チューブは20メートルも伸ばせる。家の中心に装置をセットし(電源を差し込むだけ)、家の隅々までチューブをつけたまま歩ける。便利で楽になったものだ。
さて、先端を鼻に差し込んで、さあ、どうですか?
業者さんがいるときはおとなしく、つけていた。しかし、帰るとすぐに、息苦しい、といってはずす。   !? 
ダメよ、つけていなきゃ、と無理矢理に装着させる。
 そこへ、来客が来た。私が玄関に出て応対していたが、話がかみあわず、母が出てきた、チューブをかなぐり捨てて。(ちょと、なに かっこつけてるの!)それまで、ハアハア苦しそうに息づかいをしていた母は、急に生き生きと、ニコニコして、目を大きくして、話し込む。玄関廊下の椅子に座り込んで。玄関は寒い。(おいおい。)いつまでも話を続けている。(おいおい。)コートを肩からかける。戸を閉めてもらう。話が脱線してくる。(だめだあ。)話に割り込んで、まとめる。
やっと、来客が帰ったら、こんどは立ったまま電話をかけ始める。来客関連の仕事の算段だ。脇から、大声で、今は仕事は延期してね、無理よ、と割り込むが、手を振って無視されちまった。もちろん酸素はつけていない。・・・・・。
 親に説教をしました。命がかかってます。
「だってえつけてるといきぐるしいんだもん。」
はいはい、いくら言って聞かせても、私が帰れば、取ってしまうのでしょう。こんなアホな親の話は、お医者さまにはとてもお話しできませんわ。



2月某日 食い意地の張った猫の話
 何でも食べたがり、何でも食べさせてやった優しい飼い主の猫は、糖尿病になった。(前にも話したっけ?) それで、知人は毎日、猫をつれて獣医さんで点滴をしてもらっている。知人は私のせいだと、悔やんでいる。毎日の仕事が増えてたいへん、保険もないから費用もたいへんらしい。
優しいのがいいことだとばかりは言えないって話。



2月某日 犬の食い意地
 我が家の猫は、基本食はカリカリの猫エサだが、おやつの好き嫌いは激しい。魚が好きだが、解凍の魚や遠来の魚には、匂いを嗅いでフンとそっぽを向く。活きの良さ悪さは、彼の鑑別が、いちばん鋭い。
 いっぽう、我が家の犬は、育ての親の小池さん推薦の固形エサを常食にしている。おかげで皮膚炎にもならず、元気である。が、なんでも食べたがる。太らせてはいけないので、犬の好物であるチーズはやらず、おやつはキャベツと決めている。
それでも、食い意地は張っているので、すきあらば、そのへんのものを食い散らかす。ハンバーグの残りを食われたり、パイを食べられたり。食卓とキッチンを片付けてから、室内に入れるようにしているが、油断すると、奴はみのがさない。もちろん余計な物を食べると、私は(私の油断は棚に上げて)怒る。
 きのうは、キッチンでごそごそやってるな、と思っていたら、調理台の上に置いていたバターケースからバターが消えていた。そんなところに首をつっこむか?50gはあったはず。気がついた私が激高して、こらー!どろぼー!と怒鳴ったら、シュンとなって、ハウスに引っ込んだ。悪いことをしたのは、わかっているんだな。悪いことをしたときは、しっかり怒らないと、よろしくない(コホン)。
 今日の夕方、散歩に行ったら、バター色の黄色いやわらかなウンチをしていた。やーい、消化しきれなかったじゃないか。こんなもの食っちゃ、だめだぞ。



2月某日 朱鷺の偏食
 佐渡の放鳥準備ゲージの中の朱鷺で、体調悪化しているのがいて、問題になっている。与えているドジョウだけを食べ、他のものを食べない偏食によるビタミン不足なのだという。ドジョウの中にはビタミンを破壊する物質があるので、これだけを食べていると、ダメなのだそうだ。朱鷺のなかにも、食べ物の好き嫌いがあって、ビタミン剤添加の混合食品を食べない奴がいるらしい。困った奴だ。でも、自然に戻った連中は、今は何を食べているんだろうね。
 うちのおっかさんも、偏食朱鷺な感じがする。気が向かないと食べない。菜っ葉のおひたしは硬いといって食べない。レタスサラダもかみ切れないといって食べない。宅配弁当の魚は不味いと言って食べない。肉は硬いと言って食べない。タンパク質もビタミンも不足だよ。
 そんなに食べないと、刻み食にする?どろどろ食にする?



2月某日 母の老化
 腰も痛いし、股関節も痛い。医者にいっても老化です、で終わり。あまり歩けないし車の遠出も出来なくなった。しかたがないか、と受け入れている私であるが、二回りも年上のわたしの母親は、近年まで健康そのもので生きてきたので、老化を全く受け入れない。私の歳にはナイアガラへ行っているのだ。
親の介護も舅姑の見送りもしていないので、老いていくことの予備知識がない。十分に、十分に老人に見えるのに。
 前の週は不調も訴えていなかったのに、数日前、叔母から、訪ねていったら足がむくんでいたよと電話があった。末期の祖母を連想して心配していたのだ。
 孫娘とさりげなく駆けつけた。食事に行こう、買い物に行こうと約束してあった日に。
醜く血管が浮き出ていたガナガナの薄黒かった足が、パンパンに膨らんで白く光っている。きれいだ。さわるとへこむ。痛がる。孫が30分も血行マッサージをした。やった左足はほっそりし、血管が見えてきて足首の脈がふれるようになった。
 「なんでだろうね、きゅうにだよ」「運動不足だね」「寝てばかりいるからだわね」「足踏み体操をした方がいいね」とおしゃべりしながら、右足もマッサージする。あまり成果はない。これについては医学的な大問題があるらしいので本人には言わない。
それでも痛みは消えたと言い張り、食事にいきたがる。さっきまで、行く気がしないと言っていたのに。じゃあ行こう。何ヶ月ぶりだものね。雪が降ってから外出していなかったね。
でも、やっぱりむくんでいるので靴が履けない。買ったばかりの長靴があるというので、それを履いて出る。大きめだったのか、すぽんと入った。
 中華飯店に行った。母はチャーシュー麺をたのむ。「肉をたくさん食べて栄養とらなきゃ」と言う。食慾はあるんだな。私はラーメンをたのんだが半分残した。母は2/3は食べた。
それから帰路にあったスーパーに立ち寄る。歩き出したとたん、いたたたた、と足を痛がる。それでも、入り口に置かれていた車椅子を借りて、まずブリの刺身を買う。それから篭いっぱい、ことし初めての買い物を楽しんだ。
 主治医に相談すると、低栄養による浮腫だろう。根本的には治せない、と言われた。(実は、宅配弁当は不味いといって、さっぱり食べていなかったのだ。来る人皆に佐渡のブリの刺身が食べたいと言っては買って来させ、それは食べていたようだ、わがままものめ)
入院させて、点滴を始めたら、退院できなくなるだろうとも言われた。
できるだけ好きにさせていてやりたい。家の改築やら修繕やらも目論んでいる。やたら前向きである。そういう張りも生きる力だろう。
よし、来週は三越へ行こう〜。(孫、よろしく! 平身低頭)



2月某日 「怒り」続き
図書館に鯨統一郎をさがしにいって串田孫一を借りてくる。
前者がなかったから。後者がその辺りにあったから。
随筆『ものの考え方』のなかに「怒りについて」という項があった。「怒りの本来の仕事は、自分の身を守ることであります」とあって、どきりとした。「・・護身のために正常に使われるのでしたら、僕たちは怒りのみにくさを感ずるようなこともなく、むしろ立派な勇気として、褒めたたえるべきものでしょう。。・・」 納得です。 怒ることは恥ずべきことと思っていた。自分が小さいからと。違うんだね。
いじめにあっている子らよ、自身で怒れ。  ついつい代弁しちゃってたけど。



2月某日 読書
 鯨統一郎に凝っていた。正月に帰省した子がもってきた創元推理文庫。歴史解釈が衝撃的で、これまでの歴史認識がひっくり返ったほどだった。それについては、またそのうち。
ただ、内容はともかく、文章が・・・。おおざっぱで、要約を読んでいるような気分になる。
 図書館で北村薫の短編集『元気でいてよ、R2-D2』をみつけた。妊娠中の女の方は『腹中の恐怖』は読まないで下さい、なんて書いてあるから、ホラーかな。妊娠中でない私は平気だったが、ひさしぶりに、読みなれた巧みな日本語を読んで、清涼感を味わった。



2月3日 御礼
まあ! いつのまにか、お客様カウントが20000を越えていました。
ここは、独善とボヤキばっかりですが、おつきあいくださっている方に御礼申し上げます。
ありがとう〜。シクシク(うれし涙)
昨日は20℃を超え、今朝は氷が張っていました、ヒー。
けれど、そんなことはなんのその、がんばって明日も生きちゃいます。



2月某日 八百長相撲だってサ
 力士のケータイメールに残っていたんだって。今ごろ、騒いでいるけれど、確たる証拠が出てきたというだけよ。ほうら、言ってたとおりでしょ、私の勝ちよ、だんな。
 昔、吉田健一のように、勝ち越しになるように仕組んでいる相撲なんかもう見ない、とキッパリ縁を切った文化人もいた。
 若貴が華やかなりし頃も、取り組みながら耳元で何かささやいている力士が映ったり、九州出身の老体は九州場所では絶対勝ち越すし、覇気のない取り組みがあったり、テレビで見ていれば、誰でもわかるようなこと。NHKも解説員もD閣下も漫画家も脚本家も言わなかっただけ。そっちがへんだった。
 興行なのだからいいのよ、みんなが儲かれば。八百長してても、別に、サ。



1月某日 怒ればいいのだわ
 その昔、大病院に勤めているお医者さんがね、病院の看護婦さん(今は看護師という)と浮気をしたんだって。そしたら、それを知った奥さんが病院へ乗り込んでいって怒ったんだって。
 その話を聞いたとき、すごい奥さんだね、そんなことしたらみっともなくて旦那さん病院にいられなくなるわね、と言ったら、聞かせてくれた人は、そうよね、辞職して他の町で開業したんですって、と言った。地味な先生なのよ、看護婦がちょっかいだしたんだって、かわいそうに、奥さんきつすぎだわね、と専業主婦の鏡の二人は言い合ったものだった。
 でも、さいきん、それが正解だわ、と気がついた。怒らないで憤懣をため込んで、家庭は幸せになるか、ならないね。旦那が出世したり、評価のある仕事をするのは、彼の問題で、彼女のそして家庭の問題ではないのだわね。
 


1月某日 ごくろうさん郵便屋さん
先日のこと。雪かきをしていたら、バイクに乗った郵便屋さんがとなりに手紙を届けていた。目があって、「ごくろうさま」と声をかけた。中年のよく顔を見かける人だ。日中、家にいるおばちゃんなんて、この辺では私くらいだし。(元気な奥さんは仕事にパートに出払っている、あとに残っているのは病気のばあちゃん、あれ、私だ)
「道がひどくてたいへんですね、今年はころんでいるバイクをよく見ましたよ」と続けると、「たいへんですよ。去年は骨折して入院しましたよ」「まあ、それはそれは、たいへんでしたねえ」。(ほんとに倒れたのを起こしてはまた転んでいる郵便屋さんのバイク、さいきん何度か見ました。)
車でさえ、滑ったり、ぬかるんだり、からまわりしたり、まともに走れない道を「スタッドレスタイヤですよ」とはいえ、二輪のバイクで走る苦労は、はかりしれない。道の端っこは雪の山、それが崩れてグシャグシャ、あるいはツルツルのところをバイクは走っている。降っても吹雪いても。見るにしのびないです。(あの、学習塾の兄ちゃん、今度会ったらやっぱ説教だね)
 それから、郵便屋さんは、「小さい荷物を送ることがありますか?」と聞いてきた。う〜ん、ないわねえ。なあに?ユーパックが変わってレターパックになって、350円の小さいのもできたんですよ。まあ、あなた営業もしなくちゃあなの?そうなんですよ。ご苦労様ねえ、今持っているの?はい。じゃあ、一つずつください。あー、ほんとに、いいですか、ありがとうございます。にこにこ帰っていく郵便屋さん、ころばないようにね。
さて、成り行きで、買っちゃったけど、なにに使おうかしら。
(でも、買わないでいられる?)



1月某日 晴れた日
太陽が出ている。うれしい。縁側のガラス戸の前にシクラメンの鉢を置く。日を浴びて花をつけておくれ。雪かきも、今日は休める。ホッ。
夜になって気がついた。やたら着こんでいるよ私。
ユニクロのヒートテック肌着を着て、ワコールのウールの下着を着て、10年前のまだもこもこしていた頃のユニクロのカシミアのセーターを着て、ことし買ったユニクロの男物のカーディガンを着て、ポリエステルのスカーフを首に巻き、婦人之友社の割烹着を着ていた。寒かったんだわ。



1月某日 元気な日
男の子がね。木に登って遊んでいる。両手を広げて後ろに倒れる。アッ〜。
ふわふわ雪の上に、きれいに男の子のシルエットができた。
雪国ならではの、元気な遊び。



1月某日 寒い日
少し雪が降った。除雪車が朝から来て道路をきれいにしていった。
ありがとう。ツルツルだ。 新雪の残った端っこを歩く。



1月某日 痛い日
スライサーでキャベツを擦る。ついでに
スライサーは指先も擦る。 痛いぞ。



1月某日 倹約話
 友人と倹約の話をすると、盛り上がる。
Aさんは、毎日、午前中に市場へ買い出しに行くという。安くて活きのよいモノが手に入るから。いっしょに散策に出てもお金のかかることはしない人だった。ポットにお茶を入れておやつを持参。喫茶店などもったいないという。たのしかったけど、たまにはリッチにレストランやカフェに入りたかったけどなあ。
 Bさんは、つれあいの給料を受け取ると1週間に使う分ごとに袋に入れ分けて、それ以上は使わないようにしていたという。
 かたや借金なしで改築をし、かたやローンを繰り上げ返済している。見習うべし私。



1月某日 時世の句
「ざま〜みろと 言って 逝きたい夏の宵」
そんな句をのこして、秋に逝っちゃったともだち。
かっこよすぎ。
むっちゃ、おこればよかったのに、のみこまないで。  あ

そうなんだ、怒ればいいのだ。
怒りは、悪いことじゃないのだ。



1月某日 おことば2
「過去と他人は変われない
 未来と自分は変えられる」
なにかのテレビで成功談を語っていた人の言葉。
そうなのよねぇ、どんなに言葉を尽くしても他人は変わらないのだわ。他人を変えようとするのをあきらめると道は開けるかも。



1月某日 大河ドラマも勉強になります。
 大河ドラマ『江』でのこと。江姫が、信長が徳川家康に正室と長男を殺させたのはなぜかと聞き回っていると、石坂浩二扮する千利休が「あなたは、何でも知りたがる。知ればわかるとおもっている。それは、わがまま、思い上がり、傲慢です」というような意味の説教をする。
なんだか、ズキンときました。



1月某日 雪降り止む日曜日
 おじさんたちが雪かきをしています。ふだんは、ばあちゃんばかりが雪かきしている道で。
あれれ、腰痛ベルトを一番上にはめているおじさんも、一生懸命、雪かきをしている。アノラックが暑くなって脱いだんですね。
ほどほどにね、なんて言ってられないのです。夜はまた大雪の予報です。がんばりましょう。



1月某日 雪国「平成枯れススキの歌」
昭和枯れススキは「まずーしさに 負けた〜♪  いえ、世間に負けた〜♪」
平成枯れススキは「おおーゆきに 負けた〜♪  凍った雪に負けた〜♪」
 力がなくなっちゃったのですかねえ、凍った雪をガンガン鉄のシャベルで砕いていたら、持っていた手も、かけた足も、打撲傷が、残りました。とほほ。



1月某日 雪国の礼儀
 少し気温が上がったのか、ざくざく雪になった。それで、道路はまんなかに二本の車のワダチのあとだけが凹んで、他は10数センチの圧雪になっている。車のハンドルはまったく効かない。クボミのままにしか動かない。どうか向こうから対向車が来ませんようにと祈りながら運転しているのが家の前の道路。 
 幹線道路も、対向車のとこちら側のと4本の線ができている。そのワダチでしか走れない。早く来て来て除雪車ケイティ!郵便局のバイクはそれでも走っている、えらいね!
 そんな道路に、家の前の雪を投げ捨てているヤカラがいる。これで見かけたのは2回目だ。除雪車が通って道路からきれいに雪がなくなっても、そこはいつも雪があるのだ。あぶないよ。こんど会ったら、注意してやろう、
”おいおい、道路に雪を捨てては危ないじゃないの。軽自動車はハンドルを取られるし、郵便屋さんはころぶでしょうが。雪国の礼儀を知らんのかね。勉強はできても社会常識のない子を育ててはいかんよ、○○塾の塾長の兄ちゃんよ。”
 と、かっこいいことを言いたいが、私も長岡時代に失敗してる。かの地の市街地は消雪パイプが張り巡らされ,、車道に雪はない。中心地には雁木かアーケードがあって歩くのも楽でしたねえ。だから道路に出せば融けるだろうと思って、玄関口の雪をほうりだしていたのだが、町内から、「水の出が悪いこともあるので、道路に雪を捨てないで下さい」とお達しがあった。たしかに豪雪になると水の出は悪くなり、車道も雪が積もってしまうのだった。まったく。彼は昔の私だね。でも、誰かが教えてやらねばね?
NHKの連ドラ「てっぱん」いわく「失敗したもんの勝ち。失敗する前より、かしこなってる」ですな。



1月16日(日) センター入試
 きょうも雪。テレビでは上越の大学がセンター入試の開始時間を一時間くりさげたと言っている。列車ダイヤも遅れているのだね。
のんびりと新聞を開くと昨日のセンター入試の問題が載っている。ちらりと見る。国語なら、まだいけるかな、と第一問を見てギョッ。「キョソ」ってなんだ?
「居間という空間がもとめるキョソの「風」に、立ったままでいることは・・・」という文章なのだが、知らない単語だ。
明解国語辞典をひもといて調べるが、・・あなたはご存じでしょうが・・・「キョソを失う」という用例も、私には初耳初お目見えでした。
う〜ん、浅学が、今頃、ばれましたか。
ちなみに、うちの若い衆も、こんな単語は知らん!と言っていたので、ちょっと、ホッとしました。バカの家系です。
 それに、この文章、鷲田清一『身ぶりの消失』からなのですが、古い民家をそのまま使った高齢者グループホームを絶賛していて、新式のバリアフリーの施設を、「体が覚えていたキョソを忘れ」させるからとこきおろし、ついで新建築にも苦言を呈している、と私は読んだ。おいおい違うだろ、と読みながら私は反感を押さえきれない。
 なじんだ文化に暮らし続けたいのはわかる。でもさぁ、その家は寒いでしょ。断熱材も入ってないし、床暖房もないでしょ。それに足腰の弱くなった爺婆には座るという動作が難儀なことだという介護の基本も、この人はわかってない。単なる文化人の傍観者の文章だよ、と老化した私は読みながら反論している。しかも、文章がまわりくどく難解だ。迷文だ。
それに引きかえ、第二問の加藤幸子の小説「海辺の暮らし」は、味のある良い文章だねえ。第三問はヨシトモさんか・・やっぱり非情な奴よのう。
 なあんてね。よけいなことばかり気になる。だから、勉強は、こんな自分流の理屈をこねる前の、若いうちに、つまり、何でもかんでも素直に受け入れて、与えられた資料だけから分析できる若いうちに、やっておかなくちゃあなのだ。



1月某日 タイガーマスク
うちの近所の養護施設にもきたそうです。
恥ずかしがり屋の民族だから、こんなことがきっかけで、善意の輪がひろがるのもいいことですね



1月某日 倹約ばなしはきりがない
黒豆納豆が68円。
ひきわり納豆が68円。
きのうはスーパーUの特売日 68円セール。

この前まで99円セールに老若男女が、もとい、老々男女が押し寄せていたが、こんどは68円セールが始まった。
どちらにしようか迷ったが、賞味期限が1週間あるから、両方買う。平日の売値はいくらだったかな?100円以上だった気がするが。 食べつけているものが特売していると、買わずにいられない。

 私は、近隣で、一円でも安いところをみつけると、もう他では買えない。亭主殿の稼ぎをやりくりするのが主婦の勤めだから、申し訳ないと思う。チラシを見てまで駆けつけることは今は少ないが、店によって値段が違うと安い方から買う。
スーパーHとホームセンターKは隣り合っているのに、衣料洗剤が100円も違う。ビールは店によって5円も差がある。味噌も醤油も・・・。
 そして、微妙に店の得意品目・旨さの差があって、肉ならスーパーH、魚ならスーパーU、果物・調味料は、スーパーB、野菜は産直市場へ、と、いっぺん買い出しにでると数軒を回遊するのといったら、なんどか笑われた。
はじめはキャリアウーマンから。そんな暇は無い、と言われて、それは納得。自分で稼いでいるし、一刻を惜しんで夕飯を作らなければならない主婦でもあるのだから。
先日は、専業主婦の友人にも笑われた。それは、またそのうちに・・語りましょう。

 でも、今日のチラシでは、コメリでクレラップが98円と書いてある。
雪かきしてでも出かけようかな。どんどこ雪が降ってます。



1月某日 倹約
今年は倹約するぞ〜。と今年も考える。
 5日に来たガス使用量明細は67000円だった。
どなたも驚くでしょうが、私も驚く、毎年。海からの風がじかに来る断熱材の入ってない古家に寒がり家族、FF式ファンヒーター、ガス乾燥機、自動温度保持の風呂、そしてなによりプロパンガスは高いのだ!南町時代もすごかったが、これほどではなかったよ。その上、クーラーのヒーター、コタツも使っているので電気代もバカにならない。
 先月、近くの住宅構造見学会に行った。この家の修理をしてくれた工務店さんの。今どきの断熱材は壁に吹き付けるのねえ。そして、外壁と内壁のあいだに隙間を作りモーターで空気を循環させるんだって。2階建ての家で、石油ストーブ一つで暖かい。床下も空気が天井裏から流れているので、床暖房の必要すらないそうだ。
これぞ、暖房費の倹約だよね。いいなあ。
 「めざせ省エネ住宅!」と、倹約に励もう。
とりあえず、乾燥機をやめて、室内に洗濯物を干す。昔は、こうやってオムツを干していたなあ、その時は何も言えなかったらしいが、亭主殿は、こういう貧乏くさいのが、だいっ嫌いなので、帰宅直前に撤去する。でも、サウナにいるようだ。ふ〜。



1月某日 倹約
今年は倹約するぞ〜。と去年、考えていた。
ああ、このネタだと話は尽きない。
きょうは19円のもやしを買う。去年は週1回だったが、今年は週2回にしよう。
(ちなみに、ホウレン草は180円、アスパラ菜は150円だ)



1月某日 倹約
今年は倹約するぞ〜。と去年、考えていた。
来たる日にそなえて、生活費を切り詰めて暮らせるようにしておかねば。
とりあえず、今日は徒歩で出かけて、せきもとのうどん(60円)をやめてベイシアうどん(27円)を買ってきた。おお、経費半額節約です。(でも、いつまで続くと思う?)

 (注* 雪に埋もれて車が出せないのです、雪かきができないんです。犬の散歩で雪の上で引きずられて、また腰を痛めてます。股関節もガタガタ。でも病気合戦では亭主殿に負けているので、日々の家事も、最低限で、やるっきゃない)



1月某日 雪
めぐりあいて 去りゆくときは倍さみし
しらたまの 酒につられてこぼす過去
あさぼらけ 四時の除雪車に覚醒す

雪や雪 ふるふる雪や 雪や雪



1月1日 あけましておめでとうございます。
ことしも、ぼやきにおつきあいのほど
よろしくおねがいいたします。